改めて京葉コンビナ―ト開発を読む 2 [京葉コンビナート]
1.内湾漁民の受難のはじまり
~仕組まれた“暴行事件”~
戦後の京葉臨海部における漁業権放棄のはじまりは、東京電力千葉火力発電所の建設である。1954(昭和29)年、東京電力は川崎製鉄の隣りの千葉市生浜町海面に火力発電所を建設する計画を県に提出した。県は、この要請を受け入れ、漁業権を持っていた蘇我漁協に対して漁業権放棄を申し入れた。
しかし漁民は強く反対し、反対運動を日ごとに高めていった。当時、千葉県副知事として漁業補償交渉を指揮していた友納武人氏はこう語っている。
「かねてから予期はしていたものの、猛然たる反対がまき起こり、焦燥と戸惑いとを感じつつ、ずるずる日を重ねているうちに、漁協との交渉もだんだん困難となる一方、その間漁協の方は、強力に組織化されていった。蘇我の蘇我姫神社の境内に反対運動本部がおかれ、漁民の家々には埋立て絶対反対の貼り紙が貼られるといった状況であった。漁民達は、戦争中、日立航空機工場が建設される時、軍部の圧力で有無をいわせず漁業権を取り上げられてしまった。反対の者は、憲兵隊に引っぱられた。こんどはそう簡単にはこの海苔とあさりと蛤の漁場を離さないと強く主張していた。日に日に漁民の反対運動は高まりをみせ、その夏、蘇我漁協を中心とする漁民が千葉市役所に押しかけ、代表者が市長に面会を求め交渉しているすきに、若者の一団が市長室になだれ込み占拠するという事件が起こった」(友納武人『疾風怒涛─千葉県政20年の歩み』崙書房)
県から友納副知事や水産部長がしばしば漁協に出向いて説得工作をつづけたが、漁協はまったく受けつけなかった。こうして1954年9月になると、反対運動はますます高まりをみせ、蘇我漁協だけでなく、内湾の各漁協も反対運動に立ち上がった。そして、県庁に漁民2500人が押しかけ、県庁前公園で「漁業権確保漁民大会」をひらいた。そこで、決議文を受け取りに出た柴田等県知事がもみくちゃにされて負傷するという事件が起きた。その時のことを、柴田等氏(当時の県知事)はこう述懐している。
「群衆との話合いは静かに進んでいたが、突然、酒をのんでいるらしい漁民が肩に手をかけて突き飛ばした。さらに別の漁民が帽子をはねとばした。なぐったり、けったりするものが出た。眼鏡、帽子を失ってもみくちゃになっていると報道人や、警察官が割って入ってきて助け出された」(柴田等『三寒四温』隣人社)
この“暴行事件”が、結果的に漁民の反対運動に水をさす結果となった。この事件を契機として県と漁協の漁業補償交渉が進み、ついに同年10月8日に妥結したのである。柴田氏は、さきの述懐のつづきでこう語っている。
「知事室に戻ると、警察は、申訳ありません犯人は必ず逮捕しますといい、報道人も憤がいしていたが、私は逮捕しないようにと頼んだ。この事件は新聞に大きく報道されたが、警察側は頼んだ通り唯一人も逮捕することはしなかった。結果的にみると、このことは、漁民に非常な好感を与えることになった。柴田知事は、決して我々の敵ではない、漁民のための政治をやってくれる、との印象をもたせたようであった。東電千葉火力発電所の進出も決まり、ノリ漁民への補償金は総額150億円が支払われた」
しかし、この暴行事件は“仕組まれたハプニング”であった。たとえば、当時記者をしていて、その後加納久朗知事の秘書になった野村泰氏は、こう述べている。
「突然訪れたこのハプニングは、当時記者であった私の脳裏に20年近くたった今もまだ生々しい記憶として残っている。後の調査でわかったことだが、数名の暴漢はあらかじめアルコールが入っていた。むしろ仕組まれた大会であったようだった。知事も体中にアザができる始末だったが慎重を期した県当局は警察沙汰にはしなかった。こんなハプニングを山場として交渉は次第にまとまり、3年位かかって補償金交付の段取りとなった。京葉工業地帯の最初の拠点はこのようにして確保され、すべり出した」(野村泰『住民・行政・企業の明日を考える』ぎょうせい)。
つまりは、このような陰謀によって、東京電力千葉火力発電所の建設は「戦後における内湾漁民の受難のはじまり」(湯浅博『証言・千葉県戦後史』崙書房)となったのである。
~仕組まれた“暴行事件”~
戦後の京葉臨海部における漁業権放棄のはじまりは、東京電力千葉火力発電所の建設である。1954(昭和29)年、東京電力は川崎製鉄の隣りの千葉市生浜町海面に火力発電所を建設する計画を県に提出した。県は、この要請を受け入れ、漁業権を持っていた蘇我漁協に対して漁業権放棄を申し入れた。
しかし漁民は強く反対し、反対運動を日ごとに高めていった。当時、千葉県副知事として漁業補償交渉を指揮していた友納武人氏はこう語っている。
「かねてから予期はしていたものの、猛然たる反対がまき起こり、焦燥と戸惑いとを感じつつ、ずるずる日を重ねているうちに、漁協との交渉もだんだん困難となる一方、その間漁協の方は、強力に組織化されていった。蘇我の蘇我姫神社の境内に反対運動本部がおかれ、漁民の家々には埋立て絶対反対の貼り紙が貼られるといった状況であった。漁民達は、戦争中、日立航空機工場が建設される時、軍部の圧力で有無をいわせず漁業権を取り上げられてしまった。反対の者は、憲兵隊に引っぱられた。こんどはそう簡単にはこの海苔とあさりと蛤の漁場を離さないと強く主張していた。日に日に漁民の反対運動は高まりをみせ、その夏、蘇我漁協を中心とする漁民が千葉市役所に押しかけ、代表者が市長に面会を求め交渉しているすきに、若者の一団が市長室になだれ込み占拠するという事件が起こった」(友納武人『疾風怒涛─千葉県政20年の歩み』崙書房)
県から友納副知事や水産部長がしばしば漁協に出向いて説得工作をつづけたが、漁協はまったく受けつけなかった。こうして1954年9月になると、反対運動はますます高まりをみせ、蘇我漁協だけでなく、内湾の各漁協も反対運動に立ち上がった。そして、県庁に漁民2500人が押しかけ、県庁前公園で「漁業権確保漁民大会」をひらいた。そこで、決議文を受け取りに出た柴田等県知事がもみくちゃにされて負傷するという事件が起きた。その時のことを、柴田等氏(当時の県知事)はこう述懐している。
「群衆との話合いは静かに進んでいたが、突然、酒をのんでいるらしい漁民が肩に手をかけて突き飛ばした。さらに別の漁民が帽子をはねとばした。なぐったり、けったりするものが出た。眼鏡、帽子を失ってもみくちゃになっていると報道人や、警察官が割って入ってきて助け出された」(柴田等『三寒四温』隣人社)
この“暴行事件”が、結果的に漁民の反対運動に水をさす結果となった。この事件を契機として県と漁協の漁業補償交渉が進み、ついに同年10月8日に妥結したのである。柴田氏は、さきの述懐のつづきでこう語っている。
「知事室に戻ると、警察は、申訳ありません犯人は必ず逮捕しますといい、報道人も憤がいしていたが、私は逮捕しないようにと頼んだ。この事件は新聞に大きく報道されたが、警察側は頼んだ通り唯一人も逮捕することはしなかった。結果的にみると、このことは、漁民に非常な好感を与えることになった。柴田知事は、決して我々の敵ではない、漁民のための政治をやってくれる、との印象をもたせたようであった。東電千葉火力発電所の進出も決まり、ノリ漁民への補償金は総額150億円が支払われた」
しかし、この暴行事件は“仕組まれたハプニング”であった。たとえば、当時記者をしていて、その後加納久朗知事の秘書になった野村泰氏は、こう述べている。
「突然訪れたこのハプニングは、当時記者であった私の脳裏に20年近くたった今もまだ生々しい記憶として残っている。後の調査でわかったことだが、数名の暴漢はあらかじめアルコールが入っていた。むしろ仕組まれた大会であったようだった。知事も体中にアザができる始末だったが慎重を期した県当局は警察沙汰にはしなかった。こんなハプニングを山場として交渉は次第にまとまり、3年位かかって補償金交付の段取りとなった。京葉工業地帯の最初の拠点はこのようにして確保され、すべり出した」(野村泰『住民・行政・企業の明日を考える』ぎょうせい)。
つまりは、このような陰謀によって、東京電力千葉火力発電所の建設は「戦後における内湾漁民の受難のはじまり」(湯浅博『証言・千葉県戦後史』崙書房)となったのである。
2017-07-07 17:54
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