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改めて京葉コンビナート開発を読む 3 [京葉コンビナート]

2.漁民をだました県と新日鉄

 埋め立て開発の進行にからんで、漁民はつぎつぎと漁業権を手放していった。1957年に五井町君塚漁協と市原町八幡漁協、58年に五井町五井漁協──というようにである。

 1960(昭和35)年9月には、新日本製鉄(当時は八幡製鉄)から君津進出の申し入れがあり、君津海面の各漁協に対する漁業補償交渉がはじまった。県から漁場放棄の申し入れを受けた大堀漁協と坂田漁協は、直ちに漁民大会を開催したり、対策委員会を結成するなどして、この申し入れに強く反対する態度を示した。また君津漁協では、調査・研究をして慎重に検討することを決めた。
 しかし、県と町、さらにマスコミが一体となった説得工作がはげしくつづけられた。新日鉄進出にともなう漁業権放棄の経過をくわしく調査した柿崎京一氏は、『近代漁業村落の研究─君津市内湾村落の消長』(御茶ノ水書房)の中でこう書いている。

 「しかしすでにマスコミは一斉に埋立問題が急速に進展しているように報道しているなど、当時の世論は、組合の対応をはるかに先行しており、これに刺激されて組合員の焦燥感も強まっていた。(中略)その後も新聞その他マスコミではしきりにこの問題をとりあげ、その中には君津漁協が埋立申入れを受諾することを既定のこととし、残された問題は補償金額だけだという報道や、補償金はおよそ1000万円と推定する記事まで出るほどであった。また町当局や議会、さらに県開発部からの働きかけも頻繁となり、とくに検討会が丁度海苔採取も漸く切りあげ時期を控えて地区別に開かれるようになると、こうした上部からの働きかけはより個別的にはげしさを加えるようになった」

 こうして結局、1961年8月10日、君津漁協は県との漁業権放棄の協定に調印した。同漁協が漁業権放棄を決めた臨時総会の採決結果は賛成157名、反対51名で、1戸平均の補償額は635万円であった。一方、本組合(漁協)に加入していない雑漁漁民(約70名)への補償金は、1人あたり約30万円でしかなかった。
 漁民が漁場放棄に応じた主な理由は、県が、漁業権を放棄した漁民のその後の生活について、具体的な対策を約束したことだった。この約束は、県と君津漁協との間にとりかわされた「区画漁業権漁業および共同漁業権漁業に関する協定書」に明記されている。主なものは、つぎの4点である。
i.進出会社に対し、1戸1名以上の者の就職を斡旋する。

ii.進出会社以外に対しても優先的に就職の斡旋を行う。

iii.進出会社工場内の売店設置、出入船の荷役に対する物品販売、その他工場の操業、従業員の生活に必要な営業を希望する者がある場合は優先的に斡旋する。

iv.補償金にたいして課税される国税と地方税に対する研究指導(いわゆる減税対策)を行う。

 要するに、新日鉄への1戸1名以上の雇用を約束する。また新日鉄への就職を好まない者に対しては他会社への優先的就職を斡旋する。さらに新日鉄などに関連する営業を斡旋する──などであった。この条件に漁民は大きな期待をかけたのである。
 ところが、実際には、この約束は守られなかった。新日鉄のはじめの計画では、漁業権放棄後ただちに埋め立てに着手して工場建設にとりかかり、1962年9月には一部操業する予定であった。だが、新日鉄は景気動向などをにらみあわせながら、埋め立てを中断し、工場の建設時期を大幅に遅らせた。漁民が漁業権を放棄しても、新日鉄はなかなか進出してこなかったのである。同社が本格的に埋め立てをすすめたのは協定締結から約5年たったあとであった。

 また、新日鉄が「転業希望者採用募集要領」を発表したが、それは採用にあたって数学、国語、常識、作文の4科目の筆記試験をおこなうというものであった。「1戸1名以上の優先採用」という条件しか念願になく、しかも採用試験の実施についてはまったく予期していなかったので、補償漁民にとっては大きな衝撃であった。柿崎京一氏(前出)はこう述べている。

 「就職希望者の中にはこの採用試験の発表と共に応募をあきらめる者や、受験はするものの万一不採用となることをおそれて他の企業の採用にも応募し、結局さきに採用決定した他の企業に就職してしまい八幡製鉄への就職を途中で断念してしまうものもいた。それでも11月15日の募集締切までには42名がこれに応じた。試験の結果、採用された者は18名(45%)と半数にも満たなかった」
 「八幡製鉄への就職・新しい生活への出発という住民の目算は、企業進出の当初から大きく狂わされる結果になったが、とくにその影響は転職要求の切実な零細土地所有の専業漁民層にヨリ深刻だった」(前出書)

 結局、海を捨てた漁民の多くは下請け労働者となった。
 補償漁民の期待どおりにならなかったのは雇用問題だけでなかった。新日鉄などに関連する営業の斡旋については、数えるほどしか実現しなかった。また、減税対策については、町当局が「税法上の理由から減税は困難である」という表明をした。が、この減税問題については、補償漁民のたびかさなる運動によって、ようやく転業対策助成金という名目で1組合員あたり2万5000円の税還付金が支給された。

 みられるように、新日鉄と県は漁民をだましたのである。元漁民の中には「あれもこれもみんな海を捨てさせるため、進出するためのペテンみたいなものだったんですよ」「県や町の人たちは、漁業を放棄させるときだけは熱心だったが、それが終わるととっつきのよくない悪代官さまみたいになった」(飯田清悦郎『欲望のコンビナート─地域破壊計画の真相』医事薬業新報社)などと言って、怒りをぶちまける者も少なくなかった。しかし、海を捨ててしまった漁民側の不利は覆うべきもなかった。漁協はすでに解体してしまっていたので、ペテンを知っても、文句のもっていき場がなかったのである。このへんの事情を柿崎京一氏はこう書いている。

 「当初の漁協組合員1世帯から1名以上の優先雇用という条件は殆んど空手形も同然の結果となった。すでに生活の有力な基礎を喪失した住民各層にとってこうした事態はきわめて深刻であった。しかもそれに抗議しようとしても、八幡製鉄という巨大な組織からうける重圧感がその気勢を減殺し、さらに解体に瀕した村落の共同組織の現状ではそうした勢力の結集も容易でなく、彼らはあらためて自己の生活プランを構想しなおさなければならなかった」(前出書)

 要するに、漁民は泣き寝入りを強いられたのである。


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