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木更津戦跡めぐり~その3~ [平和]

 6軒町という町がある。昭和17年航空隊と航空廠幹部の相談で、海軍直属の慰安所設置を決定した。民家を避け航空隊基地、航空廠から直線3キロを隔てることを条件に場所を選定し、この地になったという。建物は30坪程度の家を15軒建てる予定であったが、最初の六軒でその後は中止になった。慰安所の建物は2階建てで慰安婦の部屋が7室あり、そのほか化粧室、更衣室、風呂場等もあり、地下にはコンクリート製の防空壕まで設置されていた。必要物資は航空隊の物資部より特別の配給を受けていた。この中に一軒朝鮮人慰安婦の家があった。強制連行でつれてこられた婦人たちであった。
 戦後は米軍の慰安所になり、赤線廃止まで続いたという。これらの記録は、敗戦直後、朝日新聞記者による調査記事として報告されている。現地は今も雑草の生い茂る国有地である。周囲は閑静な住宅地として、家々が立ち並びその面影は全く無い。

 このほか、朝鮮人の強制連行のことや、善光寺にある朝鮮人の慰霊塔、納骨堂、今の祇園町一帯が地下工場であったこと、数多くの掩体壕(飛行機を隠すための壕)とその作業のため、中学生、女子学生を含めての動員がなされたこと。銚子塚前方後円墳にあった高射砲陣地のこと等、かっては軍事都市であった木更津市の当時の状況が、次々と浮かんでくる戦跡めぐりであった。

 この戦跡めぐりには、85歳の高齢者から高校生までの人たちが参加した。暑さの中であったが、その暑さを感じさせないほどの戦跡の重さであった。
 長浦公民館の道路沿いに、「平和都市宣言のまち袖ケ浦」の横断幕が掲げられてある。この横断幕が、毎年きちんと掲げられる袖ケ浦市であって欲しいと願う。木更津戦跡めぐりの報告である。

                                                一会員
 
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