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機銃掃射・敗戦記念日 [平和]

◆ 8月15日「敗戦記念日」です。75年前の今日のことも含め、「自分史」の中から、一番恐ろしかった空襲の話など、戦争体験から2つの話をお伝えしようと思います。 かわかみひろし

◆ 「孫たちに贈る」機銃掃射…あと30㎝離れていたら・・「語り継ぐ北海道空襲・補遺Ⅱに寄稿」

 1945年、敗戦の年の7月14日、午後2時ごろだったかな?突然空襲警報が鳴りだしました。敵の飛行機が襲ってきたのです。幸い兄弟みんな家にいたので、すぐ父が作ってくれていた防空壕(家族が入れるくらいの穴を掘って、上を覆い、土をかぶせ、被害を防ぐための隠れ場所)に入りました。みんな体を寄せ合い敵の飛行機が通り過ぎるのを、じっとかたくなって待っていました。

 その日の空襲は、爆撃機ではなく艦載機(航空母艦から飛んできた戦闘機)でした。家の屋根すれすれになるくらいのところを、かすめるように飛んで、人影を見ると狙い撃ちをするのです。どれくらい防空壕に入っていたのでしょう。実際は短い時間だったようですが、恐ろしさいっぱいで、とても長い時間のように思われました。やがて爆音も消えて、なんだか静かになったようでした。
「お兄ちゃん。まだ出たらだめ?」
と、弟の八郎に聞かれました。
「よし、兄ちゃん見てみるから、じっとしているんだぞ!」
そう言って、私はもぐりこんだ入口のふたをそっと開け、首を出しました。あたりはシーンとしています。

「もう大丈夫だろう・・」と、体を乗り出した途端でした。後ろの方からバリバリバリ・・・という音とともに、飛行機の轟音が頭の上を通り過ぎると同時に、体から30㎝ほど離れた地面の土が、一直線の線を描いたように跳ね上がったのです。私を狙った機銃掃射の銃弾が、体のそばを通り抜けたのです。あわてて壕の中に転がるように飛び込みました。あれがもう30㎝こちらだったら、どうなっていたのでしょう。壕の中でふるえるように硬くうずくまってしまいました。「兄ちゃん大丈夫?」「何があったの?」と聞かれたのですが、応える元気もありませんでした。

 この日函館には、数十機の戦闘機が空襲し、函館と青森を結ぶ連絡船が、十二隻あるうち十隻が沈没し、429名の人たちが亡くなったり、行方不明になりました。市街地の200を超える家々が攻撃され、79名の人たちが亡くなっています。

 後でわかったことですが、「函館山には空襲に備えて、高射砲(飛行機を撃つ大砲)が設置されているから安心せよ」という軍からのニュースは全くの嘘でした。山には飾りの大砲が並べられてあるだけで、敵の飛行機が襲ってきたというのに一発も撃てませんでした。

 私がまだ中学2年生だった遠い昔の話です。でも今だって、同じような目に合っている人たちが世界中を見渡すと大勢います。澤地さんという作家と、中村さんというお医者さんの対話集を贈ります。少し難しいけれどぜひ読んでみてくださいね。
 ~援農の最中、7月11日から17日の一週間、函館に一時帰宅しました。なんとその時の出来事でした。この文章は、網走の菊地慶一先生が取り組んだ、北海道空襲の記録に寄稿したものです。~
  (明日に続く)



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