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本澤二郎氏のブログから 2 [その他]

◆ 天皇の教師として戦病死・硫黄島戦線で海の藻屑の悲運
 旧木更津には望陀農学校(のちに木更津高校と統合)が存在した。ちなみに筆者の住んでいるところは、上総の国望陀郡茅野村。そこで生まれた神童・松本英子は、日本人として初めて非戦論を唱えた女傑である。(「松本英子の生涯」(府馬清著・本名・松本英一)

 彼女は日本人女性初のジャーナリストとして、戦前の政商・古川財閥の足尾銅山鉱毒事件を徹底して取材し、天皇の権力によって渡米を余儀なくされた。非戦論は9条誕生の20年前に提唱した。彼女の縁に触れ、医療事故死の次男正文の小さな顕彰碑を今年4月7日の命日に建立した。

 関さんの父親は戦前の東京帝国大学を卒業し、望陀農学校で教壇に立っていたものの、二度の赤紙で最期は戦病死の悲運に生を奪われた。そのとき関さんは母親のおなかにいた。やくざ強姦事件によって非業の死を遂げたK友子さんの父親は、二度目の赤紙で硫黄島戦線に狩りだされて、途中で米軍用機によって輸送船が撃沈され、海の藻屑となった。

 二人とも父親の顔も知らないままこの世に生まれた。友子さんの母親の生前の証言によると、何も入っていない木箱が届いたことに母子は「夫は必ず生きて帰る」と信じて、何度も木更津港の岸壁に立った。

 暗くなって「友子帰ろう」と母親が幼子の手を引くと、娘は「おかあちゃん、まだ帰らない。お父ちゃんは帰る。まだ帰らない」と母親の袖を握って離さなかった。「岸壁の母子」の悲劇は、小説でも書けない。   (続く)


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