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今まで語りたく無かった原爆体験 ~その2~ [原発災害]

幼児だった私は、当時の事を全くと言う程覚えていません。それでも、鮮明に覚えている事は、母の背中で見た、黒焦げの物体が川に沢山浮かんでいた事です。広島は川の町ですから、その物体は爆心地近くで亡くなった多くの人々だったのです。そして、炎天下を逃げて行く私に、どなたかが野球帽と、おむすびを下さった事を覚えています。そして、父方の祖母は爆心地の直ぐ傍で薬屋を営んでいましたが、骨さへ見つかる事なく亡くなりました。
又、東大を出て朝日新聞に勤めていた、母の叔父は、大本営発表の戦争記事を書くのは嫌だと新聞社を辞め、小さな饅頭屋を営んでいましたが、その大叔父も,跡かたなくこの世から消えました。両親から聞いた話では、爆心地の近くで被爆して、命からがら逃げて来て、命尽きた真っ黒な死体や、人間の姿とは思えない、焼けただれた人が息絶え絶えに溢れていたそうです。              
後で分かるのですが、この結果、土壌中からストロンチウム92やセシウム137が大量に検出されたそうで、急性白血病で亡くなった人が多くいたそうです。
原爆の炸裂の高熱により巨大なキノコ雲(原子雲)が生じた。これは爆発による高熱で発生した上昇気流によって巻き上げられた地上の粉塵が上空で拡散したため、特徴的なキノコ形になったものとされる。キノコ雲の到達高度は約、16000メートルに達していたことが判明したそうです。
低高度爆発であったためにキノコ雲は地表に接し、爆心地に強烈な誘導放射能をもたらした。熱気は上空で冷やされ雨となりました。この雨は大量の粉塵・煙を含んでおり、粘り気のある真っ黒な大粒の雨であったそうです。この雨を黒い雨と言われています。この雨は放射性降下物を含んでいたため、雨を浴びた者を被曝させ、土壌や建築物及び河川等を放射能で汚染しました。
当日、広島市上空には南東の風が吹いていたため、キノコ雲は徐々に北北西へ移動しやがて崩壊、日本海方面へ流れていきました。このため市北西部の南北19キロメートル×東西11キロメートルの楕円形の領域において黒い雨が1時間以上強く降り、この雨に直接当たる、あるいはこの雨に当たったものに触れた者は被曝しました。戦後の調査研究で、黒い雨の他、広範囲に放射性の黒い灰状の粉塵が6日15時頃まで降り、郊外にまで広範に放射能汚染をもたらしていたことが判明しています。所謂2次放射能被害者です。
福島原発でスピーディが公開されず、飯館村と同様、何キロと丸く被害が出るのではなく、風向き等でどの方向に行くかわからないと言う事です。幸い私達家族は黒い雨と反対に逃げた為、雨の被害には当たりませんでした。だから、私は今でも生きているのかも知れません。

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