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今まで語りたく無かった原爆体験 ~その1~ [原発災害]

★ 8月です。69年前、ヒロシマの原爆により被爆された方が身近にいらっしゃいました。その方のお話を、ご本人のご了解を得て、今日から6日原爆投下の日まで、連載いたします。じっくりとお読みください。
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昭和20年8月6日午前8時15分広島で見た事をお話いたします。
8月5日は深夜に2回空襲警報が発令され、6日の朝も7時過ぎに空襲警報があり、7時30分頃に解除されていたそうです。当日の気温は26,7度で薄曇りの朝だったそうです。
当時仕事は8時始業で、大半の労働者・徴用工・女子挺身隊、および勤労動員された中学上級生(1万数千人)たちは、三菱重工や東洋工業を始めとする数十の軍需工場での作業となったそうです。また建物疎開には、中学下級生(数千人)および一般市民の勤労奉仕隊(母親たち)や病気等の理由により徴兵されなかった男子等が参加していました。動員は市内の他、近隣の農村からも行われました。建物疎開とは、空襲による類焼を食い止めるために建物の間引きを行う作業です。建物の破壊は軍が行い、瓦礫の処理を奉仕隊が行いました。当然、青空の下での作業である為、彼等は原爆の熱線を直接、大量に浴びることになったそうです。尋常小学校の上級生児童は昭和20年4月に行われた集団疎開で市を離れていた者が多かったのですが、下級生児童は市内に留まっていたそうです。
私は、爆心地から約2K近く離れた千田町に家があり、近くに広島大学がありました。そこで、父(35歳)と母(28歳)と住んでいました。昭和17年9月24日生まれの私はもうすぐ3歳でした。7歳上の兄は集団疎開で自宅から約10k離れた郊外の五日市町に住んでいました。
当時、父は新聞記者をしていて、出勤の準備の為2階の階段近くで、窓の外を見ていたそうです。私は1階で母と朝食を食べる寸前で、当時の食卓で遊んでいたそうです。この食卓のお蔭で割れたガラスや、飛んで来た家具から身を守る事ができました。父は窓からの爆風で階段を滑り落ちたそうです。私の家は直ぐに倒壊した訳でなく、その後、火災で焼かれてしまいました。幼児だった私と、両親は火災から逃げる為、爆心地から4k近く離れた江波にいる叔父の家に逃れて行ったそうです。
【明日へ続く】
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