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治水対策のあり方をめぐって   ~千葉県のすぐれた事例~ [小櫃川の水を守る会]

千葉県自然保護連合事務局長中山敏則さんが機関誌「自然通信ちば」に寄稿された記事がとても興味深かったので中山さんの許可をいただきここに掲載します。
                                    関 巌
   治水対策のあり方をめぐって①
   ~千葉県のすぐれた事例~
                       千葉県自然保護連合 中山敏則
 近年は甚大な豪雨被害が多発している。今年7月の西日本豪雨被害は典型である。しかしその対策は貧弱だ。あいかわらず上流のダム建設と中・下流の河道整備にかたよっている。求められているのは、洪水流を河道に押しこめるやり方をあらため、洪水エネルギーを分散させるなど総合治水対策を推進することである。千葉県ではすぐれた総合治水対策が実施されている。

*「水を治めるものは天下を治める」
「水を治めるものは天下を治める」という言葉がある。戦国時代の名将とされる武田信玄や徳川家康などは治水対策もすぐれていた。
 たとえば家康である。利根川の洪水が江戸におよぶのを防ぐため、家康は利根川の治水対策に力を入れた。その柱となったのは、広大な面積をもつ中条(ちゅうじょう)遊水地である。
 中条遊水地は現在の埼玉県熊谷市付近にあった。遊水地の面積(洪水氾濫面積)は約50km2といわれる。遊水地の下流部には中条堤が築かれた。中条堤の長さは約4km、高さは5mぐらいだ。
 中条遊水地と中条堤は、江戸時代において利根川の治水対策の要(かなめ)となっていた。利根川の洪水を中条遊水地に湛水させ、下流側を洪水の被害から守った。江戸260年の繁栄は中条堤と中条遊水地によって支えられていたといっても過言ではない。
 中条遊水地は明治の末期、利根川の連続堤防整備にともなって廃止された。人工堤防の整備という近代土木技術を過信した明治政府が廃止したのである。1947(昭和22)年のカスリーン台風による東京の甚大な洪水被害は、中条遊水地があれば防げたのではないか。
 武田信玄も、大氾濫をくりかえしていた釜無川を合理的な方法で治め、洪水被害を抑えた。霞堤を築くことによって洪水の流れをコントロールしたのである。霞堤は、堤防を連続させずに開けておき、洪水の一部を堤防の間に遊水させるようにしたものである。
 このように、かつての日本では治水が治世の根幹となっていた。ところが、いまの日本の為政者は治水事業を利権の対象にしている。“金食い虫”の巨大ダムを推進である。だが、ダムは治水にあまり役立たない。むしろ豪雨時にダムにたまった水を緊急放流するため、下流部で甚大な洪水被害をひきおこす。それは、今年の西日本豪雨被害でも実証された。


写真は、徳川家康がつくらせた中条堤。江戸時代は右側が広大な遊水池となっていた。
2012年11月撮影
〔写真1〕中条堤.jpg

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