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今まで語りたく無かった原爆体験 ~その3~

原爆投下後、被爆者の救援活動等のため、広島市外より広島市に入市し、誘導放射能等により被曝した者を「入市被ばく者」といいます。規定では、原爆投下後2週間以内に爆心より約2キロ以内の区域に立ち入った者が入市被ばく者とされている。原爆投下当日、爆心地へ入り数時間滞在した者は約0.2シーベルト、翌日に入った者は約0.1シーベルトの被曝をしたと言われています。
広島は川の町です。多くの雨は川から海に流れて行きました。
それから先の記憶は、兄が疎開していた広島から約10K離れた、五日市と言う町に移り住んでからの事です。最初は農家の離れの様な所に住み、次に一軒家を借りて、そこから幼稚園、小学校3年生まで通いました。そして小さな家を建てて暮らしました。父は広島市内の新聞社に通っていました。日本の敗戦から5年後の昭和25年に朝鮮戦争が始まり、日本は特需に沸いていました。多くのバラック小屋も段々なくなり、原爆の後が少しずつ無くなって行きました。
今の福島と違うのは、沖縄を始め日本全国、皆被災者でしたし、同級生の中にも戦争で父親を亡くした人も多くいましたから、自分達だけが取り残されたと言う気持ちが無く、とにかく戦争が終わり、平和に暮らせる事に幸せを感じていたのかも知れません。
被爆から10年経った昭和30年頃から、父も母も健康を害する事が多くなりました。考えて見れば、父は毎日爆心地近くの新聞社に通勤していましたし、母も、よく広島に行っていました。
そして私は女子ばかりの中学に入学しました。そこで「あの人の傍に行くとうつるよ」と苛められる様になりました。その頃「原爆症は感染する」と、今で言う風評被害の様な物が流れていたからです。
父は「原爆に遭った事は人に言わない様に。広島から約20K離れた、呉と言う市に住んでいた母方の祖母の家にいた事にしなさい。それはお嫁に行く時困るから」と言っていました。だから原爆手帳も持っていません。そして、中学三年生になった夏休みが始まった日に母は突然血を吐いて死にました。その年の11月、風邪をこじらせて寝ていた父は、友人の軍医上がりの医者の往診を受けた後、祖母が見に行くと死んでいました。今で言う医療ミスではないかと言う人もいましたが、心臓麻痺という事でした。父も母も被爆による影響だと分かっていたのだとは思いますが、認めなく無かったのかも知れません。

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