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敗戦記念日2 広報そでがうら  [平和]

 (昨日に続く)

◆ 敗戦の日・・・広っぱに集まってラジオを聞く・・真夏の碧空が目に染みた

 函館の空襲の後、再び狩太(ニセコ町)に戻り、援農生活が再開した。空襲の時の強烈な印象があったせいか、なんとなくピリピリとした雰囲気の毎日であったような気がする。戦況はますます悪化し、本土決戦が叫ばれるようになっていた。そんな緊迫した雰囲気は、8月8日の新聞記事で極限に達したような感じがする。

 ヒロシマへの原爆投下は8月6日であった。しかし当時軍部の最高機関であり、すべてを統括していた大本営は、発表を二日延期し8日の発表になったのだ。「原子爆弾」という聞きなれない名称を「ハラコ爆弾」と呼ぶ人もいたくらいである。「新型の爆弾」であり「今までにない強烈な威力を持つ爆弾」であるという。
 続けて9日には、この爆弾が長崎にも落とされた。しかし、その被害の実態はどのようなものであるか、私たちにはわからなかった。

 そんな不安の日々でも、日常の生活は変わりなく、私たちは真夏の焼きつける太陽のもとで黙々と大地に向かっていた。そして十五日を迎えた。早朝先生から
「今日の援農は休みにする。お昼にラジオで重大な発表があるから、時刻になったら会館前の庭に集合すること」
という指示を受けた。「昼食の時間があるというのに、その時間に集まれとはなんだろう?」単純にそう考えて、休みでもあるしほっとして、小川に遊びに行ったり、洗濯をしたりしていたような気がする。

 雲一つない碧空であった。ニセコのお山も昆布岳もくっきりと青空に稜線を際立てていた。天皇陛下の玉音放送であるという。天皇陛下は神様で声など聴いたことがなかった。みんなが耳を澄ましていると、独特の節回しの声が流れてきた。
「朕深く(ちんふかく)世界の大勢と帝国の現状にかんがみ、非常の措置を以て時局を収拾せざるを欲し、ここに忠良なる汝臣民に告ぐ・・・」(資料調査・玉音放送原稿)
 何を言っているのか、さっぱり意味が分からなかった。先生が説明を加えた。
「敵国が出したボツダム宣言を受諾するということだ。ここには、降伏についての条件が書かれてある。それを受諾するということ。つまり戦争に負けて降伏するということなのだ。」

 茫然とした。「今は負けていても、最後には神風が吹き、日本が最後の勝利を得ると教えられ、信じてきたものが、これはどういうことか・・・・」なにか、今までにない悲愴な感情がこみ上げてはきたが、だからと言ってどうすればよいのか・・だれも発言するものはいなかった。
 先生も、その説明をしただけで、何も言わなかった。中学二年生である。真夏の太陽だけが、じりじりと、そんな私たちを焼き付けていた。

原爆投下.PNG
(ヒロシマに原爆投下)

◆ 8月15日号 「広報・そでがうら」
 
 袖ケ浦市は「平和都市宣言」のまちである。8月15日号の「広報・そでがうら」は今までにない編集になっている。第一面「語り継ぐ未来へ」と題し、平和を語り継ぐ会ピーススタッフ・きみつ」の積田文子さん(市内在住)の活動を紹介し、平和都市袖ケ浦」の宣言文が表示されている。
 あと5年もしたら、戦争体験者はいなくなると新聞にあった。袖ケ浦市広報が積極的に「戦争を知らない世代」に対し、語り継ぐ活動を紹介すていることは、素晴らしいことであると思う。
「広報・そでがうら」編集スタッフに敬意と感謝をささげたい。
                                 かわかみ






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