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100年先の日本 [集団的自衛権]

      「理念なき劣化した社会」   内山 節(立教大学院教授・哲学者)
日本の進むべき方向性を、憲法を無視し、大きく捻じ曲げようとしている現内閣の暴挙に、怒りを込めて抗議しつつ、上記論説を紹介する。            kawakami

今から15年ほど前、群馬県の「新総合計画」の策定に加わったことがあった。「新総合計画」は5年ごとに全国の都道府県が作っているもので、その県の基本計画のようなものである。
始めに各地の「計画」を読んでみたが、どこの都道府県も同じような内容になっていた。先端産業の育成とか、高速交通網、高速通信網の整備、子どもたちの生きる力をはぐくむなどとともに、自然と共生する県づくり、などが並んでいる。

 どうして同じような内容になるのか、それは5年計画であるところに理由があると気づいた。どの都道府県でも当面の課題を持っている。5年計画だとその当面の課題を列挙することになり、同じようなものになっていく。
この時の群馬の「新総合計画」では、5年計画を止め、100年計画に変更した。100年後というと、今生まれた子や孫が最晩年を迎えている頃である。だから子や孫が年を取っても困らない群馬をつくるにはどうすればよいのか、それを考えの柱に据えたのである。

  5年から100年に計画期間を延長してみると、「つくる」計画が意味を持たなくなってしまった。例えば100年後にどんな交通手段や、通信手段が用いられているかがわからないのだから、高速道路をつくるなどといっても意味がない。100年後の社会の姿がわからない以上「つくる」計画は立てようもないのである。逆に重要になったのが「残す計画」だった。社会がどんなに変わっていても、これだけは残しておかなければいけない、そういうものをしっかり残す計画に変わった。

  どんな世界になっていたとしても、自然は残しておかないといけない。二次、三次産業は変わっていくだろうけれど一次産業はしっかり残しておかないとうまくない。たとえどんな世界になっていたとしても、コミュニティーや本物の地域自治の形も残さなければいけないし、そしてなによりも、様々な課題に対して考え続ける風土を残さなければならない。勿論残すためには、都市のコミュニティーのように「つくって残すもの」もあるが、それは公共事業のようなものではないのである。

  100年計画の理念を提起し、それに基づいて県が事業政策を策定したものが、この時の「新総合計画」だったが、重要なのは、どんな時間幅で物事を考えていくのかだった。それによって見る世界が変わる。
ところが今日の政治や経済は、極めて短期間の、いわば目先の利益ばかりを追っている。
100年後にも人々が平和を享受できるようにするにはどうしたらよいのか、というような発想はどこにもないままに集団的自衛権を強行しようとする。100年後も通用する憲法の役割を考えるのではなく、解釈の変更だけで事実上の憲法改定をもたらそうとする。経済と社会の関係を考えることもなく「成長戦略」と称して、原発の再稼働と輸出、武器輸出、観光客を呼び込むためのカジノの建設、法人税減税などをすすめようとする。おこなおうとしていることは、当面の政策でしかないのである。これからの社会に対する理念がなくなっている。もっと長い時間幅で考えなければ、理念は生まれないのだから、私は、それは劣化した社会の姿だと思う。
                東京新聞 6月22日

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