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戦没者追悼式 [戦争]

戦没者追悼式
  2024/10/04        関  巖

 昨日(10月3日)袖ケ浦市主催「袖ケ浦市戦没者追悼式」が袖ケ浦市民会館大ホールで行われました。私は父が私の生まれる前に戦死したので参列してきました。
勤務の関係で案内状は毎年届いていたのですがずっと参列していなく数年前に初めて参列し今度で2度目です。
 遺族も高齢となり参列者は前回より明らかに減ってきております。
全員により黙祷の後市長の式辞、来賓の追悼の言葉がありその後献花をしました。
 来賓の挨拶は千葉県知事(代読)、浜田衆議院議員(代読)、江野沢県議会議員、千葉県遺族会会長、榎本袖ケ浦市議会議長が行いました。
 皆さんいずれも、英霊の犠牲により築かれた戦後の平和と繁栄を思い、戦争の惨禍を二度と繰り返さず恒久平和を強く願うと述べられていました。
 この言葉通り二度と戦争を起こさず今後も日本が平和で繁栄することを強く願います。今日挨拶された人たちはそれを行う権限を持った人たちなので、平和を築く努力を不断に行っていただきたいと思いました。

 数年前に参列したとき、参列者が菊の献花をしているときにBGMで流されていた曲が驚いたことに「海ゆかば」でした。この曲は戦時中葬送の曲として盛んに流されていた曲です。確かにメロディーは重々しく悲しく荘重な雰囲気を醸し出し葬送の曲に合っていますがその歌詞は次の通りです。

海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね)
山行かば 草生(む)す屍
大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ
かへり見はせじ

意味は
 戦いで海に行くなら、水に漬(つ)かる屍(しかばね)となりましょう。戦いで山に行くなら、草の生える屍となりましょう。天皇のお側(そば)で死ぬのなら、決して後悔はしません。

これは天皇のために戦場に行き天皇のために死ぬなら全く後悔は死ませんと言うことです。
これを聞いて市の担当者に「私の父は天皇の名の下に殺されている。天皇のために喜んで死ねと言うこの曲をこの場で流すことに違和感がある。今後この曲は流さないで欲しい」と話しました。

今年数年ぶりに参列したところこの曲は流れていませんでした。
市の担当者が私の気持ちを汲んでくれたことに感謝いたします。
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太田山地下壕 その(3) [戦争]


                  2024/09/14    

 木更津市太田山地下に軍事地下壕が有り、そのことを調べた元高校教師の栗原克栄(かつよし)氏の記事が東京新聞7月25日に載っていました。
 氏にこの記事について書いて欲しいとお願いしましたところ忙しい中記事を送ってくださいました。これに関連した記事を数回に分けてブログに掲載します。
せき

地下壕に関する証言 
地下壕については、三航艦司令部に勤務した通信兵の証言が残されている。  
 「日を逐って激しくなる基地への空襲に、司令部電信科は遂に市街地西(「東」の誤り)の低い山、太田山に移転した、何時の間に構築したのか、兵舎は山腹にへばりつくような三角兵舎、電信室は山の麓から奥に穿ち、コンクリートでトンネル状に造られた大きなものだった。・・・短い木更津太田山の暮らしであった。昭和20年6月上旬、三航艦司令部は奈良県に移転となった。」

 また、別の通信兵は次の様に回想している。
 「7月に入ると、第三航空艦隊司令部の約半数が奈良県天理の山中へ移動した。・・・天理の山中で司令部の移動準備が1段落したところで、私たち15名が再び木更津へ引き返すことになった。・・・木更津駅に降り立ったところ、出迎えのトラックが待っていた。ところが、意外にもトラックは基地の方角へは向かわず、山の方向へ向かって走って行く。何と第三航空艦隊司令部は、既にかの金鈴塚で有名な太田山に移っていたのである。道路側(現 国道127号線)には衛兵所があり、その南側には防空壕があった。調整班の連中がその壕から魚雷を引き出し、念入りに手入れしていた。そこから約100メートル東方に、大きな防空壕が出来ていた。入って見ると、その中はクモの巣のように掘られており、司令室や通信室などが納まっている。

 両氏の回想から、三航艦司令部と付属する通信科は、太田山に造成されたコンクリートのトンネル群へ移転したことが確認できる。通信科に関係する電信室、暗号室、司令室、通信長室、通信士室、電探室、電源室等々の部署が地下壕に移転されたと考えられる。
太田山地下壕の造成では、太田山地下壕の造成や移転はいつのことであったのか。19年11月下旬からのB29による県内空襲開始にともない、木更津海軍航空隊や第二海軍航空廠の施設は、空襲を避けるため分散疎開を始めていた。さらに、佐貫の地下工場建設に代表されるように、地下施設の造成も進められていた。そうした状況を踏まえると、三航艦の地下施設造成工事も、ほぼ同じ時期に行われていたのではないかと推測される。
(つづく)


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太田山のふもとにある地下壕の入り口を指し示す栗原さん=木更津市太田で



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太田山地下壕 その(2) [戦争]

太田山地下壕 その(2)
                  2024/09/13    

 木更津市太田山地下に軍事地下壕が有り、そのことを調べた元高校教師の栗原克栄(かつよし)氏の記事が東京新聞7月25日に載っていました。
 氏にこの記事について書いて欲しいとお願いしましたところ忙しい中記事を送ってくださいました。これに関連した記事を数回に分けてブログに掲載します。
せき

木更津の太田山地下壕(中間報告)   栗原克榮

太田山に掘られた地下壕 
太田山は今では市民の憩いの場であるが、戦時中には海軍砲台などが設置された軍事要塞であった。昭和18年秋に横須賀警備隊の派遣隊が設置した高角砲が、現在のタワー付近(第1砲台)と忠霊塔(第2砲台)の場所にそれぞれ据え付けられていた。その周辺には、探照灯が2基、約110名の隊員、配電する機関科の建物があったという。太田山の南側、県道23号(木更津末吉線)に面した斜面には、コンクリートで作られたトンネルの入り口がある。
太田山公園内の「特殊地下壕」 戦時中に旧軍などが築造した防空壕を「特殊地下壕」というが、この太田山のトンネルも「特殊地下壕」の一つであり、2007年の市の調査では、4本のトンネルについて幅員と延長の調査に基づき「太田山公園内 防空壕平面見取り図」が作成されている。調査できた範囲内の地下壕は、4本のうち長い2本のトンネルは延長約119メートルで、そのうち1本の最奥部は土砂で埋まっているとある。また4本のトンネルは他のトンネルと何カ所かで繋がっていて、上から見ると阿弥陀籤のようである。一方、太田山の西側きさらづ幼稚園下から反対側の民家の入口に通じて東西に素掘りの隧道がある。市の調査によれば、この隧道の途中から南側に向かう隧道があり、この南北に延びる隧道はその途中で東西に掘られた別の隧道と交差しさらに南の方向に掘られている。また、トンネル群には何カ所か「換気口」も設けられていた。その1つは、山頂から安西家に下る山道の途中に、コンクリート製「換気口」の地上部分が突き出ている。

第三航空艦隊 
様々な証言や資料から、太田山地下壕は、戦争末期に海軍が本土決戦準備のため編成した、「第三航空艦隊(以下「三航艦」と記す)」に関係する軍事施設であったと考えられる。
 「戦史叢書」の『本土方面海軍作戦』などを元に整理すると、三航艦は、1944(昭和19)年7月10日に行われた海軍の組織再編により発令、配備された組織である。この年6月ともなるとマリアナ諸島における戦局は日増しに悪化してきており、離島の防備を促進し航空兵力を拡充することが必要となり、三航艦の編成が発令された。司令部は横須賀海軍航空隊に置かれ、木更津、茂原、香取、横浜、館山、八丈、明治、第2鈴鹿、並びに硫黄島、南方諸島航空隊基地等に各航空部隊が配備された。その後、17日には司令部を木更津航空基地に移転した。
 三航艦は、本土近海に接近した米機動部隊に対し特攻攻撃を行ったり、マリアナ諸島に進駐した米陸軍航空隊に対する攻撃や、本土防空戦を展開した。また、硫黄島に進出し米軍への攻撃や、沖縄戦に協力するため一部の航空部隊を九州に派遣している。沖縄戦の中期(5月)頃より、司令部は奈良県の大和基地へ移動し、大和基地を中核として本土防衛の最終作戦計画である「決号作戦」をすることとなった。そのため、司令部は木更津から奈良県への移動を始め、そうした中で敗戦を迎えた(『海軍通信作戦史』)。
(つづく)

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太田山地下壕 その(1) [戦争]

 太田山地下壕 その(1)
                  2024/09/12     関  巖

 木更津市太田山地下に軍事地下壕が有り、そのことを調べた元高校教師の栗原克栄(かつよし)氏の記事が東京新聞7月25日に載っていました。

 氏にこの記事について書いて欲しいとお願いしましたところ忙しい中記事を送ってくださいました。これに関連した記事を数回に分けてブログに書きたいと思います。

 栗原氏は高校の日本史の先生でこの地域の歴史を研究し掘り起こし埋もれていた事実を多く世に出しておられます。その中には戦争に関する史料も多く掘り起こしており、知られていない史実を人々に知らせてくれております。
 彼の功績はとても貴重で素晴らしいものです。

 ちなみに私は氏と木更津高校で同僚として御一緒した時期がありましたが研究熱心で碩学の徒です。また平和運動のこの地域のリーダー的存在としても知られております。

 第一回目は東京新聞に載った記事を紹介します。
(つづく)

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「死んでも靖国に行かない」その⑤ [戦争]

「死んでも靖国に行かない」その⑤

 私が学生の時に読んだ戦没者の遺稿集「きけ わだつみのこえ」に載っている上原さんの妹の話が毎日新聞に掲載されていたのでシリーズで転載いたします。
    2024/08/20 関  巖

未来ある若者たちが犠牲に 「特攻を美談にしないで」

 良司さんは出撃前夜、陸軍報道班員として知覧にいた高木俊朗の求めに応じ、原稿用紙7枚に「所感」を書き残した。
 「権力主義全体主義の国家は一時的に隆盛であろうとも必ずや最後には敗れることは明白な事実です」とし、さらに日本の同盟国だったドイツ、イタリアがすでに敗北している事実を引き、「権力主義国家は土台石の壊れた建築物の如(ごと)く次から次へと滅亡しつつあります」とした。「日本必敗」を予言しながら「心中満足で一杯です」と結び特攻に飛び立つこの遺書は、これからも読み継がれていくだろう。
 特攻で命を落とした兵士達は「英霊」とたたえられることがある。「若者たちが、家族や国のために命をささげた」などといった美談にされるむきもある。登志江さんは「そういうふうになってほしくないですね」と言う。他方、「新しい戦争」が現実味を増し、政府は備えを進めている。
 「戦争は平和な一家をめちゃめちゃにしてしまう。そう考えたら戦争なんてできるわけがない。兄たちはそれぞれにいろんなしたいことがたくさんあったのに、死んでしまいました。若い人がそういうことがないように、精いっぱい人生を楽しめる社会であってほしいと思います」
(完)

編集後記 毎日新聞【栗原俊雄記者】
 「一年中8月ジャーナリズム」
 マスメディアは「戦後○○年」という表現をよく使う。大日本帝国の戦闘は、79年前の夏に終わった。しかし、戦争による被害は終わらない。「戦後」何年たとうと、体験者たちが心身に負った傷は完全には癒えない。79年前に戦死した兄・上原良司さんを思う妹の登志江さんの言葉、「5月11日は今でもすごく嫌な日ですよ。特攻は本当にひどい。死刑みたいなものですものね……」が、「未完の戦争」の有りようを私たちに伝えている。
 戦時下、新聞は大日本帝国政府の戦争に協力した。敗戦後の新聞は「二度と戦争に協力しない、戦争のためにペンを握らない、カメラを手にしない、輪転機を回さない」という決意から始まったはずだ。
 私は、新聞ジャーナリズムの最大の役目は国家に二度と戦争をさせない事だと思っている。私が「戦争反対」と何百万回言ったところで、影響力は無いだろう。しかし、戦争になれば庶民に被害が長く深く広く及ぶことを具体的に伝えることが、「戦争なんてとんでもない」という意識の広がりにつながり、ひいては戦争抑止力になると信じている。
 メディアは毎年8月、集中的に戦争報道を行う。私はそれを一年中やっていることから、「常夏記者」を名乗っている。新聞の最大の役目を果たすために、「常夏ジャーナリズム」を続けたい。


以下関の話
 卓球のオリンピックメダリスト早田ひな選手は、帰国して何がしたいかの問いに「アンパンマンミュージアムに行きたいのと、鹿児島(知覧)の特攻平和会館に行って、自分が生きているのと卓球ができているのが当たり前じゃないことを感じたい」と話しました。

 私も数年前に知覧の特攻平和会館に行ってきました。
部屋の真ん中に特攻で使った零戦、そして周囲には遺書や遺影がずらりと並んでいました。
特攻戦死者1, 036名のうち、全員の半数近く439名が知覧基地から出撃しています。

 若い人がここを訪れ、いかに戦争が悲惨であるかを知って欲しいと思います。

【画像】知覧特攻平和会館の展示物 特攻隊員の遺影や服・戦闘機も
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「死んでも靖国に行かない」その④ [戦争]

「死んでも靖国に行かない」その④

 私が学生の時に読んだ戦没者の遺稿集「きけ わだつみのこえ」に載っている上原さんの妹の話が毎日新聞に掲載されていたのでシリーズで転載いたします。
    2024/08/19 関  巖


「兄たちの死はなんだったのか」

 45年夏に戦争は終わった。8月15日。日本政府が連合国による降伏勧告「ポツダム宣言」を受諾する。玉音放送を聞いた登志江さんは「兄たちが死んだのはなんだったんだ」と思った。
 この時点で、上原家では長男の良春さんが生きていた。留守家族は陸軍軍医としてビルマ方面に派遣されていた良春さんが帰還することを信じていた。だが、良春さんは敗戦後の45年9月24日に戦病死していた。上原家は兄弟3人をすべて戦争で亡くしてしまったのだ。
 長女の清子さん、登志江さんが健在とはいえ両親の悲しみも深かっただろう。それでも「両親は兄たちの話はしませんでした。泣いているところも見たことがありません。一人で泣いていたのか……。家族で『生きていたら』、なんて話したことがありません。つらすぎて、みんなそれに触れたくなかったからでしょうか」。
 ただ戦後、母の与志江さんはしばしば靖国神社を訪れた。登志江さんは付き添いで行くことはあったが、自分から進んでは行かなかった。良司さんの「靖国には行かない」という言葉が胸に刻まれていたからだ。登志江さんはしかし、母に良司さんのその言葉を伝えることができなかった。「だって、母は3人がそこにいると思っていたはずですから」
(つづく)

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「死んでも靖国に行かない」その② [戦争]

「死んでも靖国に行かない」その②

 私が学生の時に読んだ戦没者の遺稿集「きけ わだつみのこえ」に載っている上原さんの妹の話が毎日新聞に掲載されていたのでシリーズで転載いたします。
    2024/08/17 関  巖

「人格的に問題」と上官をも批判する自由主義者

 戦争が始まった後、大学など高等教育に在籍する学徒は徴兵を猶予されていた。だが戦況が悪化する中、文系の学徒らが陸海軍に召集され同年12月、陸海軍に入った(学徒出陣)。
 良司さんは陸軍だった。地元長野県の松本第50連隊を経て翌年2月、特別操縦見習士官に合格した。その後、熊谷陸軍飛行学校相模教育隊(神奈川県)から館林航空隊(群馬県)と移り、飛行訓練を重ねた。登志江さんは「航空隊に入って、勇ましいな、すごいんだと誇りに思っていました」と振り返る。

 軍隊生活では個人の自由より国家、組織の秩序が優先だった。上官の部下に対する理不尽な指導や体罰、精神的いじめがまかり通ってもいた。良司さんが信条とした自由とはほど遠い環境だった。
 たとえば44年5月28日。部隊の航空用眼鏡が行方不明になった。軍隊では持ち物を失うことは大きなペナルティーを課されることがあった。このため、何らかの理由で失ってしまった者が「戦友」のそれを盗むことがあった。この眼鏡がどうだったかは不明だが、「犯人」探しが始まった。名乗り出る者はいなかった。翌29日、良司さんらは炎天下に10時間以上立たされることになった。同日の「修養反省録」に、良司さんは書いた。「恥辱ノ日」。

 「修養反省録」は、良司さんら生徒が訓練の内容や考えたことなどを書き、教官が返事を書くものだ。航空兵としての修練を重ねる一方で、良司さんは軍、上官への憤りもつのらせていたようだ。44年6月27日に記した反省録に「汝(なんじ)、宜(よろ)しく人格者たれ。教育隊に人格者少なきを遺憾とする。人格者なれば、言少くして、教育行はる」
 教官に「人格的に問題がある」と指摘しているようなものだ。上官の命令は絶対という軍隊にあっては極めて異例であった。教官は赤字で「貴様は上官を批判する気か。その前に貴様の為(な)すべきことをなせ。学生根性を去れ!」などと書いた。殴り書きのような書き方で、強い怒りが伝わってくる。
 「そんなことを書いたり言ったりしたらどうなるか分かっていた。それでも上原君は黙ってなかったですよ」。戦後、良司さんの戦友からそう聞かされた。並外れた勇気を持つ、筋金入りの自由主義者だった。
(つづく)


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「死んでも靖国に行かない」その① [戦争]

「死んでも靖国に行かない」その①

 私が学生の時に読んだ戦没者の遺稿集「きけ わだつみのこえ」に載っている上原さんの妹さんの話が毎日新聞に掲載されていたのでシリーズで転載いたします。
    2024/08/15 関  巖

毎日新聞【栗原俊雄記者】
「死んでも靖国に行かない」 特攻兵の兄が遺した言葉 妹に打ち明けた敗戦の覚悟 

学徒出陣し、「特攻」で戦死した上原良司さんの妹、登志江さん=千葉県松戸市の話です。

 第二次世界大戦下、今から80年前の1944年10月、日本軍は爆弾を搭載した航空機ごと搭乗員が敵艦などに体当たりする特別攻撃隊=特攻を始めた。45年8月の敗戦までの10カ月間でおよそ4000人が命を落とした。その特攻隊員の中で、最も知られている1人が上原良司さんだろう。

 戦没者の遺稿集「きけ わだつみのこえ」に「明日は自由主義者が一人この世から去って行きます。彼の後姿は淋(さび)しいですが、心中満足で一杯です」などと記した遺書が掲載され、読み継がれてきた。だが、良司さんが家族に「死んでも靖国には行かない」と話していたことや、良司さんを含む3兄弟が戦死していたことはあまり知られていない。5人きょうだいの末っ子で次女の登志江さん(94)に、「上原家の戦争」を振り返ってもらった。

 3人の兄が戦死 「頭の中でぼかしながら生きてきた」
 「はっきり覚えているのが、嫌なんですよ。悲しいというか……。あまり考えないように、自分の頭の中ではずっとぼかしながら生きてきました」 昨年9月、千葉県内の自宅で登志江さんは記者にそう話しつつも、亡くなった3人の兄たちや残された家族のことを語り始めてくれた。

 良司さんは、長野県七貴村(現池田町)で、開業医だった父の上原寅太郎さんと母与志江さんの3男2女の三男として生まれた。
 長男の良春さん、次男の龍男さんは慶応大医学部に進み、良司さんは同大経済学部に進学した。良司さんは「航空機のグラビア写真を見せてくれて『これはすごいんだよ』などと話していました」。また「ハーモニカが好きで。ときおり『わーかき血に』って歌ってもいましたね」。慶応の応援歌「若き血」だ。母と野球の「早慶戦」を観戦し、母は「すごく良かった」と話していたという。志望大学に進んだ若者の喜びが伝わってくる。

 上原家の平穏な生活をよそに、日本は戦争を続けていた。37年に始まった日中戦争に続き、41年12月には米英などとの戦争も始めた。龍男さんは海軍軍医となった。43年10月22日。龍男さんが乗艦していた潜水艦「伊182」は南太平洋・ニューヘブリデス諸島方面で米軍に撃沈され、戦死した。 (つづく)
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「終戦」という言葉の欺瞞 [戦争]

「終戦」という言葉の欺瞞
2024/08/15            関  巖

 本日8月15日は「終戦」と呼ばれています。本当は「敗戦」です。
終戦というと勝敗は分からず引き分けとか、場合によっては勝って戦争が終わった時でも使えます。
 太平洋戦争において日本は連合軍に無条件降伏で完全に負けたので「敗戦」であることは間違いありません。
 「敗戦」というと日本が負けたあの戦争がいかにひどい戦争であったかと言うことがはっきりと分かるので為政者(戦前は天皇、政府、軍部、財閥など)は「敗戦」と言う言葉を使いたくなく、「終戦」という言葉を思いつき、マスコミもこぞって「終戦」と言う名を使っています。
 国民もそれに慣らされて「敗戦」と言わず「終戦」と言っていますが、これははっきりと「敗戦」と言うべきでしょう。そしてあの戦争がいか無謀で無残な戦争であったかを思い起こす日であって欲しいです。

戦争で敗退したことを「転戦」、全員戦死したことを「玉砕」など実態とことなる言葉で国民に真実を知らせないことが多くありました。

 私の父は私が生まれる前に戦死しました。死ぬ間際に「万歳、万歳」と言って死んでいったと言うことを私が大きくなったとき、側にいた人から聞きました。これは天皇陛下万歳という意味で、この戦争は「聖戦」と呼ばれて天皇のために忠義を尽くすように教育され、戦死したら英霊として靖国神社に祀られました。
 私は英霊などと呼んで欲しくはありません。聖戦の名の下に戦争を起こした為政者によって殺されたと思っています。
 私の昭和中学校の同級生110名の内父親が戦死した人は10名もいました。
もし今交通事故で親が亡くなる比率が中学生の1割に上れば社会的に大問題となることでしょう。

 為政者(戦後は政府と陰に隠れた財界)はこのように言葉を変えて実態を隠そうとすることが多いです。このことは現在でも沢山あります。
例えば本来日本では禁止されていた兵器の輸出のことを「防衛装備移転」などと言って国民をごまかそうとしています。

このブログや政策研に対するご意見、要望などは下記メールアドレスに住所、氏名を記入の上お送り下さい。
sodeseisakuken@yahoo.co.jp

 
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