裁判傍聴のお願い
議員勤務評定
議員勤務評定(市議会一般質問回数)
2024/08/30
袖ケ浦市民が望む政策研究会
今期9月議会で現在の議員の4年の任期が終わり10月に市議選挙が行われます。
議員の一番大事な仕事は2元代表制のもと、市執行部の行政に対して市民の目線から議会での質問や発言を通して行政の在り方を糾したり提案をすることです。
そのことを踏まえて政策研究会では議員の活動を注視しております。
今期で現在の議員の任期が終わることから、各議会における議員の一般質問の回数を報告したいと思います。4年間で一般質問の回数は16回あります。
下の表は各議員の一般質問の登壇回数を16で割った割合です。(登壇率)
なお議長(佐藤麗子氏、榎本雅司氏)の在任期間は統計に入れてありません。
渡辺あゆみ氏は昨年秋の補選で当選してからの回数で計算しています。
同率の場合は市議会で決めた議席番号順(当選回数順)で書いてあります。
なお質問通告をしていて質問する予定でしたがコロナ等で直前に登壇できなかった場合は登壇したものとして扱いました。
今開催中の9月議会は質問通告をした議員を登壇数としています。
議員総数22名のうち登壇回数の割合が50%以上の議員が14名おります。
一方50%未満の議員は8名おります。
この中で一度も質問していない議員が2人、1~3回の議員が4人もいます。上に書いたようにこれらの議員は一番大事な議員の職務を全く行っていないと言う事で何の為に議員になったのか不思議でなりません。
このブログや政策研に対するご意見、要望などは下記メールアドレスに住所、氏名を記入の上お送り下さい。
sodeseisakuken@yahoo.co.jp
2024/08/30
袖ケ浦市民が望む政策研究会
今期9月議会で現在の議員の4年の任期が終わり10月に市議選挙が行われます。
議員の一番大事な仕事は2元代表制のもと、市執行部の行政に対して市民の目線から議会での質問や発言を通して行政の在り方を糾したり提案をすることです。
そのことを踏まえて政策研究会では議員の活動を注視しております。
今期で現在の議員の任期が終わることから、各議会における議員の一般質問の回数を報告したいと思います。4年間で一般質問の回数は16回あります。
下の表は各議員の一般質問の登壇回数を16で割った割合です。(登壇率)
なお議長(佐藤麗子氏、榎本雅司氏)の在任期間は統計に入れてありません。
渡辺あゆみ氏は昨年秋の補選で当選してからの回数で計算しています。
同率の場合は市議会で決めた議席番号順(当選回数順)で書いてあります。
なお質問通告をしていて質問する予定でしたがコロナ等で直前に登壇できなかった場合は登壇したものとして扱いました。
今開催中の9月議会は質問通告をした議員を登壇数としています。
議員総数22名のうち登壇回数の割合が50%以上の議員が14名おります。
一方50%未満の議員は8名おります。
この中で一度も質問していない議員が2人、1~3回の議員が4人もいます。上に書いたようにこれらの議員は一番大事な議員の職務を全く行っていないと言う事で何の為に議員になったのか不思議でなりません。
このブログや政策研に対するご意見、要望などは下記メールアドレスに住所、氏名を記入の上お送り下さい。
sodeseisakuken@yahoo.co.jp
袖ケ浦市議会 9月議会 その④ [議会ウオッチング]
袖ケ浦市議会 9月議会 その③
館山市の事業仕分け(行政評価) その2 [行政改革]
館山市の事業仕分け(行政評価) その2
2024/08/25
館山市では事業仕分けを行っています。
面白そうなので館山市議の石井としひろ市議のブログより転載させていただきました。
袖ケ浦市でもこのような取り組みをしたら良いと思います。
せき
館山市の事業仕分け(行政評価)が本日(8月4日)行われました。
事業仕分けの午後は、会場のコミュニティセンターに行って、生で見てきました。同じ発言内容でも、会場の方が説得力を感じるものです。
③ ふるさと創世奨学資金貸付金
館山市独自の高校・大学などの奨学貸付金です。地元に戻ると3分の1の返済が免除されます。古くは竹下政権のバラマキである「ふるさと創生1億円」から始まりました。
当時の館山市は立派で、教育投資に使ったわけです。ただ、現在では国など他の奨学金の方が使い勝手が良いことから、利用者は右肩下がりです。もはや役目を終えたと言えます。
事業仕分けだと、担当課は事業の廃止には抵抗することが多いのですが、むしろ廃止を提案してきました。学童保育で待機児童がいたり、通学支援の充実など他に教育投資をしたいことがたくさんあるからです。予算の組み替え希望というわけでした。
④「学童保育」と「放課後子ども教室」の統合について
他の自治体では両事業とも、放課後の子どもの居場所として似通っているところもあり、統合でいい場合もあります。
しかし、館山市の場合は、学童保育は常在の「居場所」であり、子ども教室は月2回(それぞれ1時間程度)くらいの「地域体験学習」の場であり、目的も内容も明確に異なることから、統合はないという結論でした。そして、それぞれの事業は評価され、改善的拡充というのが事業仕分けの結論でもありました。ただ、人手不足という課題が残っています。
⑤ふるさと納税
これは廃止や縮小という話ではなく、いかに金額を増やすかというアイデアを出す場になりました。
担当職員たちからは、「PRの強化など、金額を増やせそうな余地は多いにある。ただ、人件費を含めた総経費が寄付金の50%までというのが国のルールなので、人も増やせず、人手不足で困っている」という話でした。
「ビジネスとして、目標と期限を決め、逆算して組織を作る。民間の協力もカギ」という意見がありましたが、その通りだと思います。寄付を増やせる見込みがあるなら、先に人を増やして、寄付金も増やせば、50%内に収まります。ここは民間の発想で、少し荒々しくやって欲しいところです。
今年の事業仕分けは1日で終わりです。無理のない範囲で続けて欲しいと思います。もちろん、カットする場合にはクレームもあり、その意見ももっともな面もあり、板挟みに苦しみますが。
2024/08/25
館山市では事業仕分けを行っています。
面白そうなので館山市議の石井としひろ市議のブログより転載させていただきました。
袖ケ浦市でもこのような取り組みをしたら良いと思います。
せき
館山市の事業仕分け(行政評価)が本日(8月4日)行われました。
事業仕分けの午後は、会場のコミュニティセンターに行って、生で見てきました。同じ発言内容でも、会場の方が説得力を感じるものです。
③ ふるさと創世奨学資金貸付金
館山市独自の高校・大学などの奨学貸付金です。地元に戻ると3分の1の返済が免除されます。古くは竹下政権のバラマキである「ふるさと創生1億円」から始まりました。
当時の館山市は立派で、教育投資に使ったわけです。ただ、現在では国など他の奨学金の方が使い勝手が良いことから、利用者は右肩下がりです。もはや役目を終えたと言えます。
事業仕分けだと、担当課は事業の廃止には抵抗することが多いのですが、むしろ廃止を提案してきました。学童保育で待機児童がいたり、通学支援の充実など他に教育投資をしたいことがたくさんあるからです。予算の組み替え希望というわけでした。
④「学童保育」と「放課後子ども教室」の統合について
他の自治体では両事業とも、放課後の子どもの居場所として似通っているところもあり、統合でいい場合もあります。
しかし、館山市の場合は、学童保育は常在の「居場所」であり、子ども教室は月2回(それぞれ1時間程度)くらいの「地域体験学習」の場であり、目的も内容も明確に異なることから、統合はないという結論でした。そして、それぞれの事業は評価され、改善的拡充というのが事業仕分けの結論でもありました。ただ、人手不足という課題が残っています。
⑤ふるさと納税
これは廃止や縮小という話ではなく、いかに金額を増やすかというアイデアを出す場になりました。
担当職員たちからは、「PRの強化など、金額を増やせそうな余地は多いにある。ただ、人件費を含めた総経費が寄付金の50%までというのが国のルールなので、人も増やせず、人手不足で困っている」という話でした。
「ビジネスとして、目標と期限を決め、逆算して組織を作る。民間の協力もカギ」という意見がありましたが、その通りだと思います。寄付を増やせる見込みがあるなら、先に人を増やして、寄付金も増やせば、50%内に収まります。ここは民間の発想で、少し荒々しくやって欲しいところです。
今年の事業仕分けは1日で終わりです。無理のない範囲で続けて欲しいと思います。もちろん、カットする場合にはクレームもあり、その意見ももっともな面もあり、板挟みに苦しみますが。
館山市の事業仕分け(行政評価) その1 [行政改革]
館山市の事業仕分け(行政評価) その1
2024/08/24
館山市では事業仕分けを行っています。
面白そうなので館山市議の石井としひろ市議のブログより転載させていただきました。
せき
館山市の事業仕分け(行政評価)が本日(8月4日)行われました。
テーマ:「公共交通について」(午前)
仕分け人という外部有識者5人が市の担当課に、事業の意義・課題・改善点などを質問し、そのやり取りを見て、無作為に選ばれた市民たちが「廃止・改善・拡充」などの判定をします。1事業につき1時間程度です。ただ、今年はその市民判定人が15名くらいで、少ない感じがします。昨年は30人以上いたのに。
さて、午前中は2つの事業が議論されました。
①市街地循環バス
②福祉タクシー利用助成チケット(心身重度障害者に600円タクシー券を24枚など)
・循環バスに3千万円使うなら、1万人の公共交通必要者に3千円のタクシーチケットを 渡した方がいいのではないか?
・600円チケット24枚よりも、1万円カードの方がいいのではないか?
・デマンドバスやバス事業者補助金など全ての公共交通を含めて、議論すべき
・もっと利用者の声を聞くべき
などの意見が出ました。
ただ、はっきりした結論は出ずに、「要検証・要改善」止まりでした。
個人的には、障害者や免許がない高齢者に対して、3割〜5割のバスやタクシー割引をできるようにするのが制度的に優れていると思います。
(つづく)
2024/08/24
館山市では事業仕分けを行っています。
面白そうなので館山市議の石井としひろ市議のブログより転載させていただきました。
せき
館山市の事業仕分け(行政評価)が本日(8月4日)行われました。
テーマ:「公共交通について」(午前)
仕分け人という外部有識者5人が市の担当課に、事業の意義・課題・改善点などを質問し、そのやり取りを見て、無作為に選ばれた市民たちが「廃止・改善・拡充」などの判定をします。1事業につき1時間程度です。ただ、今年はその市民判定人が15名くらいで、少ない感じがします。昨年は30人以上いたのに。
さて、午前中は2つの事業が議論されました。
①市街地循環バス
②福祉タクシー利用助成チケット(心身重度障害者に600円タクシー券を24枚など)
・循環バスに3千万円使うなら、1万人の公共交通必要者に3千円のタクシーチケットを 渡した方がいいのではないか?
・600円チケット24枚よりも、1万円カードの方がいいのではないか?
・デマンドバスやバス事業者補助金など全ての公共交通を含めて、議論すべき
・もっと利用者の声を聞くべき
などの意見が出ました。
ただ、はっきりした結論は出ずに、「要検証・要改善」止まりでした。
個人的には、障害者や免許がない高齢者に対して、3割〜5割のバスやタクシー割引をできるようにするのが制度的に優れていると思います。
(つづく)
紙おむつ代補助 [福祉計画]
紙おむつ代補助
2024/08/23 関 巖
袖ケ浦市では、「高齢者紙おむつ等支給事業」を行っており良い取り組みと思います。
これは、65歳以上の要介護者の方を介護している市内の家族の方対象に紙おむつを購入した費用を月額3,000円補助するものです。
私の義母がこの春介護施設に入り、紙おむつは自宅で用意して下さい、と言われました。
春に市役所高齢者支援課に補助金の申請に行ったところ「施設に入所した人は対象から外されます。」と言われました。
実施要項を見せて貰うと、
第1条(目的)この要項は在宅の要介護高齢者を介護している者又は要介護高齢者に対し、紙おむつ等を支給することにより、要介護高齢者を介護している者等の経済的負担の軽減を図り、もって要介護高齢者の福祉の向上を図ることを目的とする。
この要項は、「在宅の要介護者に限り」支給するもので、施設に入った人は対象ではない、とのことでした。
たしかにこの条文によれば施設に入っている場合は補助金が受けられないのですが、この条文そのものが不合理であると思いました。
私はこの条文の目的は「要介護高齢者を介護している者等の経済的負担の軽減を図り」が目的であるはずで、施設に入っている者には経済的負担の軽減を行わないと言うことになりおかしいと思いました。
施設に入ることにより月20数万円の費用がかかること、施設で紙おむつを支給されていなく自分で用意するように言われていること、等により施設に入った家庭が経済的に優遇されているとは言えないのでこの条文にある「在宅に限る」自体がおかしいのではないかと言いました。
担当者は「対象を拡大すると財政負担が大きくなる」とのことでしたが「財政負担が大きくなることと施設入所者を外す不公平さは関係ない。施設入所者の家庭の方が経済的に豊かであると言う統計なり根拠がありますか。」と聞くと「そのようなものはない」とのことなので「ぜひ検討して欲しい」と要望しておきました。「秋口に検討する」との事でしたのでその結果を「秋に聞きに来ます」と伝え帰ってきました。
このような家庭は私1人ではなく他にもいると思いますので「在宅に限る」と言う条件は外して欲しいです。
このブログや政策研に対するご意見、要望などは下記メールアドレスに住所、氏名を記入の上お送り下さい。
sodeseisakuken@yahoo.co.jp
2024/08/23 関 巖
袖ケ浦市では、「高齢者紙おむつ等支給事業」を行っており良い取り組みと思います。
これは、65歳以上の要介護者の方を介護している市内の家族の方対象に紙おむつを購入した費用を月額3,000円補助するものです。
私の義母がこの春介護施設に入り、紙おむつは自宅で用意して下さい、と言われました。
春に市役所高齢者支援課に補助金の申請に行ったところ「施設に入所した人は対象から外されます。」と言われました。
実施要項を見せて貰うと、
第1条(目的)この要項は在宅の要介護高齢者を介護している者又は要介護高齢者に対し、紙おむつ等を支給することにより、要介護高齢者を介護している者等の経済的負担の軽減を図り、もって要介護高齢者の福祉の向上を図ることを目的とする。
この要項は、「在宅の要介護者に限り」支給するもので、施設に入った人は対象ではない、とのことでした。
たしかにこの条文によれば施設に入っている場合は補助金が受けられないのですが、この条文そのものが不合理であると思いました。
私はこの条文の目的は「要介護高齢者を介護している者等の経済的負担の軽減を図り」が目的であるはずで、施設に入っている者には経済的負担の軽減を行わないと言うことになりおかしいと思いました。
施設に入ることにより月20数万円の費用がかかること、施設で紙おむつを支給されていなく自分で用意するように言われていること、等により施設に入った家庭が経済的に優遇されているとは言えないのでこの条文にある「在宅に限る」自体がおかしいのではないかと言いました。
担当者は「対象を拡大すると財政負担が大きくなる」とのことでしたが「財政負担が大きくなることと施設入所者を外す不公平さは関係ない。施設入所者の家庭の方が経済的に豊かであると言う統計なり根拠がありますか。」と聞くと「そのようなものはない」とのことなので「ぜひ検討して欲しい」と要望しておきました。「秋口に検討する」との事でしたのでその結果を「秋に聞きに来ます」と伝え帰ってきました。
このような家庭は私1人ではなく他にもいると思いますので「在宅に限る」と言う条件は外して欲しいです。
このブログや政策研に対するご意見、要望などは下記メールアドレスに住所、氏名を記入の上お送り下さい。
sodeseisakuken@yahoo.co.jp
再エネの出力抑制 [再生可能エネルギー]
再エネの出力抑制
2024/08/22 関 巖
太陽光発電など再生エネルーによる発電を、大手電力会社が一方的に止める出力抑制が急増していて今年度の出力抑制量の見通しはおととしの4.2倍にものぼります。
出力抑制は無制限、無補償で行われ、再エネ設備の設置者は発電収入が得られず、今年度見通し750億円の損失にもなります。
事業が続けられず設備投資にかけたお金の返済ができず倒産するところが出てきています。
また新規に再エネに取り組む事業者も減ってきています。
経産省は原子力発電の出力を抑制したことはなく、火力発電の出力抑制も不十分です。大規模な老朽化した火力発電や原発を温存するものです。
昨年の世界の平均気温は産業革命前に比べ1.45度上昇しており、目標の1.5度直前にまで上昇しております。
昨今の熱波と呼ばれる高温状態を見れば一刻も早く気候変動を抑えねばなりません。
日本政府はG7の中で唯一石炭火力の廃止期限の明記に強く反対し、化石燃料を使い続けることに固執しています。
大手電力会社の言い分だけを聞く政府でなく、CO2を出さない再エネの急速な増加を後押しする政策を政府は推し進めるべきです。
2024/08/22 関 巖
太陽光発電など再生エネルーによる発電を、大手電力会社が一方的に止める出力抑制が急増していて今年度の出力抑制量の見通しはおととしの4.2倍にものぼります。
出力抑制は無制限、無補償で行われ、再エネ設備の設置者は発電収入が得られず、今年度見通し750億円の損失にもなります。
事業が続けられず設備投資にかけたお金の返済ができず倒産するところが出てきています。
また新規に再エネに取り組む事業者も減ってきています。
経産省は原子力発電の出力を抑制したことはなく、火力発電の出力抑制も不十分です。大規模な老朽化した火力発電や原発を温存するものです。
昨年の世界の平均気温は産業革命前に比べ1.45度上昇しており、目標の1.5度直前にまで上昇しております。
昨今の熱波と呼ばれる高温状態を見れば一刻も早く気候変動を抑えねばなりません。
日本政府はG7の中で唯一石炭火力の廃止期限の明記に強く反対し、化石燃料を使い続けることに固執しています。
大手電力会社の言い分だけを聞く政府でなく、CO2を出さない再エネの急速な増加を後押しする政策を政府は推し進めるべきです。
原発建設費用を国民から徴収?
原発建設費用を国民から徴収?
2024/08/21
投稿者 袖ケ浦市民が望む政策研究会 会長
経済産業省が原発の新増設を進めるため、建設費を電気料金に上乗せできるようにする制度の導入を検討していることが報じられています。
https://www.tokyo-np.co.jp/n/genpatsu
原発の建設費は、今や1兆円を超え、安全対策費や維持費も膨張し、世界的にも最も高い電源となっています。
コストも高くリスクも高い原発は、通常では投資する企業はいないでしょう。このため、広く国民から資金を徴収する仕組みをつくることにより、原発への投資を後押ししたいという思惑が透けて見えます。
従来から、原発の立地対策や核のごみ関係などには巨額の税金が使われ続け、優遇されてきています。本来であれば事業者が負うべき福島第一原発事故の賠償金の一部も、託送料金に上乗せして、将来世代にわたって広く徴収されています。
これ以上、原発への優遇を進めてよいのか。
上の図のように政府と電力会社は建設後40年を超えた原発の再稼働を計画していることは御存知のとおり、原発は運転可能なものでも定期検査や修理で停止期間が長くその間に経費、警備費用(税金)廃棄物費用などもろもろ加算するととっくの昔にもっとも高い発電方法でした。
これらの国民から見えない経費を計算しないため原発電気は安いとなって、実業界は原発電気を求め続けてきた。
私が30歳少し前のころ(4-50年前)に市原市で行った学習会講師の東大の教授に直に原発について聞いたことがありますが
1.原発の寿命は30年としてメーカーは製造・建設している。
2.圧力容器は中性子にさらされる(中性子アタック)ことで段々鉄がガラスのように変化し割れやすくなるので長期運転、負荷変動運転には向いていない
と話していました。 このことから40年経過+20年延長など自殺行為です。
実際に自分は火力発電所運転員の経験から洩れない、壊れない機器なんてありえないことを経験的に感じていましたのでいまの状況はとても危険と感じている。
皆様ご存じのようについに日本でも太陽光発電量は原発を超え、発電単価はもっとも安価と言われるところまできました。
しかし、政府は重工業に忖度し石炭など火力発電の増加、維持政策を堅持、建設費用の大半を税金で建設、運転停止しても20年間税金からお金が電力会社に支給される仕組みを作っていますがご存じでしょうか? そして今回、福島事故の溶け落ちた燃料デブリを1Kgも撤去できてない状況でも原発建設費用まで一般市民から巻き上げようとしています。
一方言葉では日本の環境では太陽光が再エネのなかでもっとも適しているといいつつ、増えないよう政策をも行っています。
早期にテレビや自動車のように製造から廃棄までの仕組みを整備、発送電の完全分離と送電網の整備、太陽光発電と蓄電池設置の義務付けを行い、火力と原発は縮小・停止ー>廃止をドイツのように明確化すべき
ドイツはすでに原発をすべて停止しましたし、石炭火力はロシアの戦争で停止は遅れていましが
停止に向け再エネ拡大に注力しています。
中国は最大のCO2排出国ですが国家を上げて再エネに投資し、ダンピングもあり、日本のパネル
製造事業はほぼ全滅、米は中国製品に重課税に踏み切っています。
日本の日立、東芝、、、などのパネル製造事業撤退の裏には中国のダンピングもありますが国民の気候危機と政策への無関心がその背景と思いますが皆様はどうおもうでしょうか?
安い電力で製造すれば安い製品ができて国際競争力が増す。日本は龍の中国に飲まれる無能政治家の羊国家に見える。
以上
2024/08/21
投稿者 袖ケ浦市民が望む政策研究会 会長
経済産業省が原発の新増設を進めるため、建設費を電気料金に上乗せできるようにする制度の導入を検討していることが報じられています。
https://www.tokyo-np.co.jp/n/genpatsu
原発の建設費は、今や1兆円を超え、安全対策費や維持費も膨張し、世界的にも最も高い電源となっています。
コストも高くリスクも高い原発は、通常では投資する企業はいないでしょう。このため、広く国民から資金を徴収する仕組みをつくることにより、原発への投資を後押ししたいという思惑が透けて見えます。
従来から、原発の立地対策や核のごみ関係などには巨額の税金が使われ続け、優遇されてきています。本来であれば事業者が負うべき福島第一原発事故の賠償金の一部も、託送料金に上乗せして、将来世代にわたって広く徴収されています。
これ以上、原発への優遇を進めてよいのか。
上の図のように政府と電力会社は建設後40年を超えた原発の再稼働を計画していることは御存知のとおり、原発は運転可能なものでも定期検査や修理で停止期間が長くその間に経費、警備費用(税金)廃棄物費用などもろもろ加算するととっくの昔にもっとも高い発電方法でした。
これらの国民から見えない経費を計算しないため原発電気は安いとなって、実業界は原発電気を求め続けてきた。
私が30歳少し前のころ(4-50年前)に市原市で行った学習会講師の東大の教授に直に原発について聞いたことがありますが
1.原発の寿命は30年としてメーカーは製造・建設している。
2.圧力容器は中性子にさらされる(中性子アタック)ことで段々鉄がガラスのように変化し割れやすくなるので長期運転、負荷変動運転には向いていない
と話していました。 このことから40年経過+20年延長など自殺行為です。
実際に自分は火力発電所運転員の経験から洩れない、壊れない機器なんてありえないことを経験的に感じていましたのでいまの状況はとても危険と感じている。
皆様ご存じのようについに日本でも太陽光発電量は原発を超え、発電単価はもっとも安価と言われるところまできました。
しかし、政府は重工業に忖度し石炭など火力発電の増加、維持政策を堅持、建設費用の大半を税金で建設、運転停止しても20年間税金からお金が電力会社に支給される仕組みを作っていますがご存じでしょうか? そして今回、福島事故の溶け落ちた燃料デブリを1Kgも撤去できてない状況でも原発建設費用まで一般市民から巻き上げようとしています。
一方言葉では日本の環境では太陽光が再エネのなかでもっとも適しているといいつつ、増えないよう政策をも行っています。
早期にテレビや自動車のように製造から廃棄までの仕組みを整備、発送電の完全分離と送電網の整備、太陽光発電と蓄電池設置の義務付けを行い、火力と原発は縮小・停止ー>廃止をドイツのように明確化すべき
ドイツはすでに原発をすべて停止しましたし、石炭火力はロシアの戦争で停止は遅れていましが
停止に向け再エネ拡大に注力しています。
中国は最大のCO2排出国ですが国家を上げて再エネに投資し、ダンピングもあり、日本のパネル
製造事業はほぼ全滅、米は中国製品に重課税に踏み切っています。
日本の日立、東芝、、、などのパネル製造事業撤退の裏には中国のダンピングもありますが国民の気候危機と政策への無関心がその背景と思いますが皆様はどうおもうでしょうか?
安い電力で製造すれば安い製品ができて国際競争力が増す。日本は龍の中国に飲まれる無能政治家の羊国家に見える。
以上
「死んでも靖国に行かない」その⑤ [戦争]
「死んでも靖国に行かない」その⑤
私が学生の時に読んだ戦没者の遺稿集「きけ わだつみのこえ」に載っている上原さんの妹の話が毎日新聞に掲載されていたのでシリーズで転載いたします。
2024/08/20 関 巖
未来ある若者たちが犠牲に 「特攻を美談にしないで」
良司さんは出撃前夜、陸軍報道班員として知覧にいた高木俊朗の求めに応じ、原稿用紙7枚に「所感」を書き残した。
「権力主義全体主義の国家は一時的に隆盛であろうとも必ずや最後には敗れることは明白な事実です」とし、さらに日本の同盟国だったドイツ、イタリアがすでに敗北している事実を引き、「権力主義国家は土台石の壊れた建築物の如(ごと)く次から次へと滅亡しつつあります」とした。「日本必敗」を予言しながら「心中満足で一杯です」と結び特攻に飛び立つこの遺書は、これからも読み継がれていくだろう。
特攻で命を落とした兵士達は「英霊」とたたえられることがある。「若者たちが、家族や国のために命をささげた」などといった美談にされるむきもある。登志江さんは「そういうふうになってほしくないですね」と言う。他方、「新しい戦争」が現実味を増し、政府は備えを進めている。
「戦争は平和な一家をめちゃめちゃにしてしまう。そう考えたら戦争なんてできるわけがない。兄たちはそれぞれにいろんなしたいことがたくさんあったのに、死んでしまいました。若い人がそういうことがないように、精いっぱい人生を楽しめる社会であってほしいと思います」
(完)
編集後記 毎日新聞【栗原俊雄記者】
「一年中8月ジャーナリズム」
マスメディアは「戦後○○年」という表現をよく使う。大日本帝国の戦闘は、79年前の夏に終わった。しかし、戦争による被害は終わらない。「戦後」何年たとうと、体験者たちが心身に負った傷は完全には癒えない。79年前に戦死した兄・上原良司さんを思う妹の登志江さんの言葉、「5月11日は今でもすごく嫌な日ですよ。特攻は本当にひどい。死刑みたいなものですものね……」が、「未完の戦争」の有りようを私たちに伝えている。
戦時下、新聞は大日本帝国政府の戦争に協力した。敗戦後の新聞は「二度と戦争に協力しない、戦争のためにペンを握らない、カメラを手にしない、輪転機を回さない」という決意から始まったはずだ。
私は、新聞ジャーナリズムの最大の役目は国家に二度と戦争をさせない事だと思っている。私が「戦争反対」と何百万回言ったところで、影響力は無いだろう。しかし、戦争になれば庶民に被害が長く深く広く及ぶことを具体的に伝えることが、「戦争なんてとんでもない」という意識の広がりにつながり、ひいては戦争抑止力になると信じている。
メディアは毎年8月、集中的に戦争報道を行う。私はそれを一年中やっていることから、「常夏記者」を名乗っている。新聞の最大の役目を果たすために、「常夏ジャーナリズム」を続けたい。
以下関の話
卓球のオリンピックメダリスト早田ひな選手は、帰国して何がしたいかの問いに「アンパンマンミュージアムに行きたいのと、鹿児島(知覧)の特攻平和会館に行って、自分が生きているのと卓球ができているのが当たり前じゃないことを感じたい」と話しました。
私も数年前に知覧の特攻平和会館に行ってきました。
部屋の真ん中に特攻で使った零戦、そして周囲には遺書や遺影がずらりと並んでいました。
特攻戦死者1, 036名のうち、全員の半数近く439名が知覧基地から出撃しています。
若い人がここを訪れ、いかに戦争が悲惨であるかを知って欲しいと思います。
関
【画像】知覧特攻平和会館の展示物 特攻隊員の遺影や服・戦闘機も
私が学生の時に読んだ戦没者の遺稿集「きけ わだつみのこえ」に載っている上原さんの妹の話が毎日新聞に掲載されていたのでシリーズで転載いたします。
2024/08/20 関 巖
未来ある若者たちが犠牲に 「特攻を美談にしないで」
良司さんは出撃前夜、陸軍報道班員として知覧にいた高木俊朗の求めに応じ、原稿用紙7枚に「所感」を書き残した。
「権力主義全体主義の国家は一時的に隆盛であろうとも必ずや最後には敗れることは明白な事実です」とし、さらに日本の同盟国だったドイツ、イタリアがすでに敗北している事実を引き、「権力主義国家は土台石の壊れた建築物の如(ごと)く次から次へと滅亡しつつあります」とした。「日本必敗」を予言しながら「心中満足で一杯です」と結び特攻に飛び立つこの遺書は、これからも読み継がれていくだろう。
特攻で命を落とした兵士達は「英霊」とたたえられることがある。「若者たちが、家族や国のために命をささげた」などといった美談にされるむきもある。登志江さんは「そういうふうになってほしくないですね」と言う。他方、「新しい戦争」が現実味を増し、政府は備えを進めている。
「戦争は平和な一家をめちゃめちゃにしてしまう。そう考えたら戦争なんてできるわけがない。兄たちはそれぞれにいろんなしたいことがたくさんあったのに、死んでしまいました。若い人がそういうことがないように、精いっぱい人生を楽しめる社会であってほしいと思います」
(完)
編集後記 毎日新聞【栗原俊雄記者】
「一年中8月ジャーナリズム」
マスメディアは「戦後○○年」という表現をよく使う。大日本帝国の戦闘は、79年前の夏に終わった。しかし、戦争による被害は終わらない。「戦後」何年たとうと、体験者たちが心身に負った傷は完全には癒えない。79年前に戦死した兄・上原良司さんを思う妹の登志江さんの言葉、「5月11日は今でもすごく嫌な日ですよ。特攻は本当にひどい。死刑みたいなものですものね……」が、「未完の戦争」の有りようを私たちに伝えている。
戦時下、新聞は大日本帝国政府の戦争に協力した。敗戦後の新聞は「二度と戦争に協力しない、戦争のためにペンを握らない、カメラを手にしない、輪転機を回さない」という決意から始まったはずだ。
私は、新聞ジャーナリズムの最大の役目は国家に二度と戦争をさせない事だと思っている。私が「戦争反対」と何百万回言ったところで、影響力は無いだろう。しかし、戦争になれば庶民に被害が長く深く広く及ぶことを具体的に伝えることが、「戦争なんてとんでもない」という意識の広がりにつながり、ひいては戦争抑止力になると信じている。
メディアは毎年8月、集中的に戦争報道を行う。私はそれを一年中やっていることから、「常夏記者」を名乗っている。新聞の最大の役目を果たすために、「常夏ジャーナリズム」を続けたい。
以下関の話
卓球のオリンピックメダリスト早田ひな選手は、帰国して何がしたいかの問いに「アンパンマンミュージアムに行きたいのと、鹿児島(知覧)の特攻平和会館に行って、自分が生きているのと卓球ができているのが当たり前じゃないことを感じたい」と話しました。
私も数年前に知覧の特攻平和会館に行ってきました。
部屋の真ん中に特攻で使った零戦、そして周囲には遺書や遺影がずらりと並んでいました。
特攻戦死者1, 036名のうち、全員の半数近く439名が知覧基地から出撃しています。
若い人がここを訪れ、いかに戦争が悲惨であるかを知って欲しいと思います。
関
【画像】知覧特攻平和会館の展示物 特攻隊員の遺影や服・戦闘機も
「死んでも靖国に行かない」その④ [戦争]
「死んでも靖国に行かない」その④
私が学生の時に読んだ戦没者の遺稿集「きけ わだつみのこえ」に載っている上原さんの妹の話が毎日新聞に掲載されていたのでシリーズで転載いたします。
2024/08/19 関 巖
「兄たちの死はなんだったのか」
45年夏に戦争は終わった。8月15日。日本政府が連合国による降伏勧告「ポツダム宣言」を受諾する。玉音放送を聞いた登志江さんは「兄たちが死んだのはなんだったんだ」と思った。
この時点で、上原家では長男の良春さんが生きていた。留守家族は陸軍軍医としてビルマ方面に派遣されていた良春さんが帰還することを信じていた。だが、良春さんは敗戦後の45年9月24日に戦病死していた。上原家は兄弟3人をすべて戦争で亡くしてしまったのだ。
長女の清子さん、登志江さんが健在とはいえ両親の悲しみも深かっただろう。それでも「両親は兄たちの話はしませんでした。泣いているところも見たことがありません。一人で泣いていたのか……。家族で『生きていたら』、なんて話したことがありません。つらすぎて、みんなそれに触れたくなかったからでしょうか」。
ただ戦後、母の与志江さんはしばしば靖国神社を訪れた。登志江さんは付き添いで行くことはあったが、自分から進んでは行かなかった。良司さんの「靖国には行かない」という言葉が胸に刻まれていたからだ。登志江さんはしかし、母に良司さんのその言葉を伝えることができなかった。「だって、母は3人がそこにいると思っていたはずですから」
(つづく)
私が学生の時に読んだ戦没者の遺稿集「きけ わだつみのこえ」に載っている上原さんの妹の話が毎日新聞に掲載されていたのでシリーズで転載いたします。
2024/08/19 関 巖
「兄たちの死はなんだったのか」
45年夏に戦争は終わった。8月15日。日本政府が連合国による降伏勧告「ポツダム宣言」を受諾する。玉音放送を聞いた登志江さんは「兄たちが死んだのはなんだったんだ」と思った。
この時点で、上原家では長男の良春さんが生きていた。留守家族は陸軍軍医としてビルマ方面に派遣されていた良春さんが帰還することを信じていた。だが、良春さんは敗戦後の45年9月24日に戦病死していた。上原家は兄弟3人をすべて戦争で亡くしてしまったのだ。
長女の清子さん、登志江さんが健在とはいえ両親の悲しみも深かっただろう。それでも「両親は兄たちの話はしませんでした。泣いているところも見たことがありません。一人で泣いていたのか……。家族で『生きていたら』、なんて話したことがありません。つらすぎて、みんなそれに触れたくなかったからでしょうか」。
ただ戦後、母の与志江さんはしばしば靖国神社を訪れた。登志江さんは付き添いで行くことはあったが、自分から進んでは行かなかった。良司さんの「靖国には行かない」という言葉が胸に刻まれていたからだ。登志江さんはしかし、母に良司さんのその言葉を伝えることができなかった。「だって、母は3人がそこにいると思っていたはずですから」
(つづく)
「死んでも靖国に行かない」その③
「死んでも靖国に行かない」その③
私が学生の時に読んだ戦没者の遺稿集「きけ わだつみのこえ」に載っている上原さんの妹の話が毎日新聞に掲載されていたのでシリーズで転載いたします。
2024/08/18 関 巖
特攻直前、敗戦覚悟し「死んだら靖国ではなく天国へ」
特攻出撃前の上原良司さん(左端)=1945年5月11日、鹿児島県・知覧基地で撮影(登志江さん提供)
45年4月。良司さんが最後の帰省をした。夕食の時、良司さんは急にぽつりと言った。「この戦争は負けるよ」。登志江さんは「驚きました。日本は絶対勝つと思っていました。最後は神風が吹くと。そう教育されていましたから。びっくりして、雨戸を開けて外をみました。憲兵に聞かれたら大変だと思って。誰かいないかとのぞいたのを記憶しています」憲兵は国民の反戦思想などを取り締まる役目だった。実際、聞かれたら何をされたか分からない。
良司さんは、さらに2人だけの場でつぶやいた。「死んでも靖国神社には行かないからね。天国へ行くから」
1869年、明治天皇によって「国家のために一命を捧げられたこれらの人々の名を後世に伝え、その御霊を慰めるため」(靖国神社ホームページ)、招魂社が東京九段に創建され、1879年に靖国神社と社号が改められた。戦死者は「祖国に殉じた尊い神霊(みたま)」として靖国神社にまつられた。死を覚悟した兵士たちが「靖国で会おう」と約束することもあった。
戦死者の多くは遺体も遺骨も遺族のもとには戻らなかった。遺族たちは、魂がまつられている靖国に参拝することで心の安らぎを求めた。しかし、良司さんはそこに行くことを拒んだのだ。
帰省から家を出る時、見送る家族に向かって良司さんは叫んだ。「さようなら、」と3回。特攻隊のことは知りませんでしたが、母は『もう帰ってこないのでは……』と言った気がします。
1945年5月11日。良司さんは鹿児島・知覧の特攻基地から、爆弾を積んだ戦闘機「飛燕」で沖縄方面に飛び立ち、戦死した。22歳。「5月11日は今でもすごく嫌な日ですよ。特攻は本当にひどい。死刑みたいなものですものね……。(特攻を始めた人が)どんな気持ちだったのか聞いてみたい」。登志江さんはそう話す。
(つづく)
私が学生の時に読んだ戦没者の遺稿集「きけ わだつみのこえ」に載っている上原さんの妹の話が毎日新聞に掲載されていたのでシリーズで転載いたします。
2024/08/18 関 巖
特攻直前、敗戦覚悟し「死んだら靖国ではなく天国へ」
特攻出撃前の上原良司さん(左端)=1945年5月11日、鹿児島県・知覧基地で撮影(登志江さん提供)
45年4月。良司さんが最後の帰省をした。夕食の時、良司さんは急にぽつりと言った。「この戦争は負けるよ」。登志江さんは「驚きました。日本は絶対勝つと思っていました。最後は神風が吹くと。そう教育されていましたから。びっくりして、雨戸を開けて外をみました。憲兵に聞かれたら大変だと思って。誰かいないかとのぞいたのを記憶しています」憲兵は国民の反戦思想などを取り締まる役目だった。実際、聞かれたら何をされたか分からない。
良司さんは、さらに2人だけの場でつぶやいた。「死んでも靖国神社には行かないからね。天国へ行くから」
1869年、明治天皇によって「国家のために一命を捧げられたこれらの人々の名を後世に伝え、その御霊を慰めるため」(靖国神社ホームページ)、招魂社が東京九段に創建され、1879年に靖国神社と社号が改められた。戦死者は「祖国に殉じた尊い神霊(みたま)」として靖国神社にまつられた。死を覚悟した兵士たちが「靖国で会おう」と約束することもあった。
戦死者の多くは遺体も遺骨も遺族のもとには戻らなかった。遺族たちは、魂がまつられている靖国に参拝することで心の安らぎを求めた。しかし、良司さんはそこに行くことを拒んだのだ。
帰省から家を出る時、見送る家族に向かって良司さんは叫んだ。「さようなら、」と3回。特攻隊のことは知りませんでしたが、母は『もう帰ってこないのでは……』と言った気がします。
1945年5月11日。良司さんは鹿児島・知覧の特攻基地から、爆弾を積んだ戦闘機「飛燕」で沖縄方面に飛び立ち、戦死した。22歳。「5月11日は今でもすごく嫌な日ですよ。特攻は本当にひどい。死刑みたいなものですものね……。(特攻を始めた人が)どんな気持ちだったのか聞いてみたい」。登志江さんはそう話す。
(つづく)
「死んでも靖国に行かない」その② [戦争]
「死んでも靖国に行かない」その②
私が学生の時に読んだ戦没者の遺稿集「きけ わだつみのこえ」に載っている上原さんの妹の話が毎日新聞に掲載されていたのでシリーズで転載いたします。
2024/08/17 関 巖
「人格的に問題」と上官をも批判する自由主義者
戦争が始まった後、大学など高等教育に在籍する学徒は徴兵を猶予されていた。だが戦況が悪化する中、文系の学徒らが陸海軍に召集され同年12月、陸海軍に入った(学徒出陣)。
良司さんは陸軍だった。地元長野県の松本第50連隊を経て翌年2月、特別操縦見習士官に合格した。その後、熊谷陸軍飛行学校相模教育隊(神奈川県)から館林航空隊(群馬県)と移り、飛行訓練を重ねた。登志江さんは「航空隊に入って、勇ましいな、すごいんだと誇りに思っていました」と振り返る。
軍隊生活では個人の自由より国家、組織の秩序が優先だった。上官の部下に対する理不尽な指導や体罰、精神的いじめがまかり通ってもいた。良司さんが信条とした自由とはほど遠い環境だった。
たとえば44年5月28日。部隊の航空用眼鏡が行方不明になった。軍隊では持ち物を失うことは大きなペナルティーを課されることがあった。このため、何らかの理由で失ってしまった者が「戦友」のそれを盗むことがあった。この眼鏡がどうだったかは不明だが、「犯人」探しが始まった。名乗り出る者はいなかった。翌29日、良司さんらは炎天下に10時間以上立たされることになった。同日の「修養反省録」に、良司さんは書いた。「恥辱ノ日」。
「修養反省録」は、良司さんら生徒が訓練の内容や考えたことなどを書き、教官が返事を書くものだ。航空兵としての修練を重ねる一方で、良司さんは軍、上官への憤りもつのらせていたようだ。44年6月27日に記した反省録に「汝(なんじ)、宜(よろ)しく人格者たれ。教育隊に人格者少なきを遺憾とする。人格者なれば、言少くして、教育行はる」
教官に「人格的に問題がある」と指摘しているようなものだ。上官の命令は絶対という軍隊にあっては極めて異例であった。教官は赤字で「貴様は上官を批判する気か。その前に貴様の為(な)すべきことをなせ。学生根性を去れ!」などと書いた。殴り書きのような書き方で、強い怒りが伝わってくる。
「そんなことを書いたり言ったりしたらどうなるか分かっていた。それでも上原君は黙ってなかったですよ」。戦後、良司さんの戦友からそう聞かされた。並外れた勇気を持つ、筋金入りの自由主義者だった。
(つづく)
私が学生の時に読んだ戦没者の遺稿集「きけ わだつみのこえ」に載っている上原さんの妹の話が毎日新聞に掲載されていたのでシリーズで転載いたします。
2024/08/17 関 巖
「人格的に問題」と上官をも批判する自由主義者
戦争が始まった後、大学など高等教育に在籍する学徒は徴兵を猶予されていた。だが戦況が悪化する中、文系の学徒らが陸海軍に召集され同年12月、陸海軍に入った(学徒出陣)。
良司さんは陸軍だった。地元長野県の松本第50連隊を経て翌年2月、特別操縦見習士官に合格した。その後、熊谷陸軍飛行学校相模教育隊(神奈川県)から館林航空隊(群馬県)と移り、飛行訓練を重ねた。登志江さんは「航空隊に入って、勇ましいな、すごいんだと誇りに思っていました」と振り返る。
軍隊生活では個人の自由より国家、組織の秩序が優先だった。上官の部下に対する理不尽な指導や体罰、精神的いじめがまかり通ってもいた。良司さんが信条とした自由とはほど遠い環境だった。
たとえば44年5月28日。部隊の航空用眼鏡が行方不明になった。軍隊では持ち物を失うことは大きなペナルティーを課されることがあった。このため、何らかの理由で失ってしまった者が「戦友」のそれを盗むことがあった。この眼鏡がどうだったかは不明だが、「犯人」探しが始まった。名乗り出る者はいなかった。翌29日、良司さんらは炎天下に10時間以上立たされることになった。同日の「修養反省録」に、良司さんは書いた。「恥辱ノ日」。
「修養反省録」は、良司さんら生徒が訓練の内容や考えたことなどを書き、教官が返事を書くものだ。航空兵としての修練を重ねる一方で、良司さんは軍、上官への憤りもつのらせていたようだ。44年6月27日に記した反省録に「汝(なんじ)、宜(よろ)しく人格者たれ。教育隊に人格者少なきを遺憾とする。人格者なれば、言少くして、教育行はる」
教官に「人格的に問題がある」と指摘しているようなものだ。上官の命令は絶対という軍隊にあっては極めて異例であった。教官は赤字で「貴様は上官を批判する気か。その前に貴様の為(な)すべきことをなせ。学生根性を去れ!」などと書いた。殴り書きのような書き方で、強い怒りが伝わってくる。
「そんなことを書いたり言ったりしたらどうなるか分かっていた。それでも上原君は黙ってなかったですよ」。戦後、良司さんの戦友からそう聞かされた。並外れた勇気を持つ、筋金入りの自由主義者だった。
(つづく)