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「死んでも靖国に行かない」その③

「死んでも靖国に行かない」その③

 私が学生の時に読んだ戦没者の遺稿集「きけ わだつみのこえ」に載っている上原さんの妹の話が毎日新聞に掲載されていたのでシリーズで転載いたします。
    2024/08/18 関  巖

特攻直前、敗戦覚悟し「死んだら靖国ではなく天国へ」

 特攻出撃前の上原良司さん(左端)=1945年5月11日、鹿児島県・知覧基地で撮影(登志江さん提供)
スクリーンショット 2024-08-15 160338.png
 45年4月。良司さんが最後の帰省をした。夕食の時、良司さんは急にぽつりと言った。「この戦争は負けるよ」。登志江さんは「驚きました。日本は絶対勝つと思っていました。最後は神風が吹くと。そう教育されていましたから。びっくりして、雨戸を開けて外をみました。憲兵に聞かれたら大変だと思って。誰かいないかとのぞいたのを記憶しています」憲兵は国民の反戦思想などを取り締まる役目だった。実際、聞かれたら何をされたか分からない。

 良司さんは、さらに2人だけの場でつぶやいた。「死んでも靖国神社には行かないからね。天国へ行くから」
 1869年、明治天皇によって「国家のために一命を捧げられたこれらの人々の名を後世に伝え、その御霊を慰めるため」(靖国神社ホームページ)、招魂社が東京九段に創建され、1879年に靖国神社と社号が改められた。戦死者は「祖国に殉じた尊い神霊(みたま)」として靖国神社にまつられた。死を覚悟した兵士たちが「靖国で会おう」と約束することもあった。

 戦死者の多くは遺体も遺骨も遺族のもとには戻らなかった。遺族たちは、魂がまつられている靖国に参拝することで心の安らぎを求めた。しかし、良司さんはそこに行くことを拒んだのだ。

 帰省から家を出る時、見送る家族に向かって良司さんは叫んだ。「さようなら、」と3回。特攻隊のことは知りませんでしたが、母は『もう帰ってこないのでは……』と言った気がします。

 1945年5月11日。良司さんは鹿児島・知覧の特攻基地から、爆弾を積んだ戦闘機「飛燕」で沖縄方面に飛び立ち、戦死した。22歳。「5月11日は今でもすごく嫌な日ですよ。特攻は本当にひどい。死刑みたいなものですものね……。(特攻を始めた人が)どんな気持ちだったのか聞いてみたい」。登志江さんはそう話す。
(つづく)



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